潔な師匠でもあつたのである。
私はこの部屋でいくつかの飜訳をした。明日までに、やつて頂だいよ、雑誌ができないもの、と葛巻にせがまれて、大概一夜づゝで訳したものだが、シェイケビッチ夫人のプルウストに就てのクロッキといふ本も一夜で訳したし(本といつても有閑マダムの豪華本だから全訳して三十枚ぐらゐしかない)ヴァレリイのヴァリエテやジッドのオスカアワイルドの思ひ出、コクトオの音楽論だの誰だかのモンターヂュ論だの、ずいぶん訳した。一夜の仕事で分らないところは抜かして辞書などひかずにやるのだから、出来上りは明快流麗、あの難渋のヴァレリイやコクトオが明快手軽に訳されてしまふのだつた。知らない人々は感心して小林秀雄までヴァリエテの訳をほめたけれども、分らぬところはみんな抜かして訳すのだから明快流麗は当然で、ほめられると大変苦しく困るのであつた。葛巻はそんなことゝは知らなかつた。
私は芥川の書斎でいつも芥川に敵意をいだいてゐた。彼の華やかだつた盛名に反感をいだいてゐたのであつた。私は今日芥川の小さな遺稿のいくつかに変らざる敬意を払つてゐるのであるが、当時彼の書斎でそれらを原稿のまゝ読んだときには、く
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