にします、と叫んだが、彼の全身は怒りのためにふるへてゐた。葛巻は良家の躾よく育てられた礼儀正しい少年で、自分の意志を率直な言葉で表現することのできない弱気な貴公子といふ風で、私は彼の怒つたのを見たことすらこのとき一度あるのみ、ふだんはウンザリするほど煮えきらない人だ。それがある種の立場に立つと、先方の事情などは全然思ひやらず、これほど大胆向ふ見ずに自分の利益を主張できるものかと思ひ知つて、呆れもしたが感動もした。私などにはない坊ちやんの純潔さを見たのである。彼は恋をしてゐたのだ。自分の意志すら表現できない坊ちやんらしい片思ひで、彼にとつてはその恋が彼の生活の全部であつた。恋のための身だしなみに彼には立派な雑誌が必要であつたので、だから彼は必死に怒つたのであつた。私がこのことに気づいたのは後日の話である。
 彼は然し令嬢に向つて打開けることはできなかつたが、私たちには打開けすぎるぐらゐ打開けてゐた。雑誌の編輯は芥川家の二階の寝室で、この寝室では芥川龍之介がガス管をくはへて死に損つたことがあるさうだが、そのガス管は床の間の下にまだ有つたし、部屋いつぱい青い絨氈《じゆうたん》をしきつめて、日
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