よせがちであるが、これは動物的なもので、だからそのために神経衰弱になるような人間的性格をともなわないものである。
 成年の恋愛は人間のものである。情熱の高さのみが純粋であっても、人間が、純粋である筈はあり得ない。
 私は然し、当時に於ては、情熱が高ければ純粋なものだ、という考え方を捨てるだけの経験がなかった。だから自己の不純さについて多くの苦しみを重ねもしたし、反面、情熱の高さ劇しさに依存して、それを一途にまもることにも苦心した。その一々を思いだしてみることは、何の役にも立たないだろう。
 今さら矢田津世子に再会したことがいけなかったのだ。私はあの人に会いたいと思いつゞけていた。然し、会わない方がいゝ、会ってはいけないという考えもあった。なぜであるか、当時の私にはシカと正体のつかみがたい不安と怖れであったが、それが正しかったのである。
 あの人と会わない三年間に、あの人は私にとって、実在するあの人ではなくなっていた。
 私は「いづこへ」の女と一緒にくらした二年ちかいあいだ、女と別れること、むしろ逃げることばかり考えていた。そのくせ、このまま、身を捨て、世を捨てる、なぜそれが出来ないのかとも考えた。
 私はたぶん、あのころは、何のために生きているのか知らなかったに相違ない。自殺とか、世を捨てるとか、そんなことを思う時間も多かった。そして私を漠然と生きさせ、生きぬこうとさせた力の主要なものは、たぶん「勝敗」ということ、勝ちたいということ、であったと私は思う。
 勝利とは、何ものであろうか。各人各様であるが、正しい答えは、各人各様でないところに在るらしい。
 たとえば、将棋指しは名人になることが勝利であると云うであろう。力士は横綱になることだと云うであろう。そこには世俗的な勝利の限界がハッキリしているけれども、そこには勝利というものはない。私自身にしたところで、人は私を流行作家というけれども、流行作家という事実が私に与えるものは、そこには俗世の勝利感すら実在しないということであった。
 人間の慾は常に無い物ねだりである。そして、勝利も同じことだ。真実の勝利は、現実に所有しないものに向って祈求されているだけのことだ。そして、勝利の有り得ざる理をさとり、敗北自体に充足をもとめる境地にも、やっぱり勝利はない筈である。
 けれども、私は勝ちたいと思った。負けられぬと思った。何事に
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