三十歳
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)却々《なかなか》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)わざ/\
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 冬であった。あるいは、冬になろうとするころであった。私の三十歳の十一月末か十二月の始めごろ。
 あのころのことは、殆ど記憶に残っていない。二十七歳の追憶のところで書いておいたが、私はこのことに就ては、忘れようと努力した長い年月があったのである。そして、その努力がもはや不要になったのは、あの人の訃報が訪れた時であった。私は始めてあの人のこと、あのころのことを思いだしてみようとしたが、その時はもう、みんな忘れて、とりとめのない断片だけがあるばかり、今もなお、首尾一貫したものがない。
 日暮れであった。いや、いつか、日暮れになったのだ。あの人が来たとき、私がハッキリ覚えているのは、私がひどく汚らしい顔をしていたことだけだ。私はその一週間ぐらい顔を剃らなかったのだ。
 私は自分のヒゲヅラがきらいである。汚らしく、みすぼらしいというより、なんだか、いかにも悪者らしく、不潔な魂が目だってくる。ヒゲがあると、目まで濁る。陰鬱で、邪悪だ。
 そのくせ不精な私は、却々《なかなか》ヒゲを剃ることができない。私のヒゲはかたいので、タオルでむす必要があるから、それが煩しいのである。仕事をしながら頬杖をつくと、掌にヒゲが当る。すると私は不愉快になり、濁った暗い目を想像して居たゝまらなくなるのであるが、不精な私はそれをどうすることもできない。鏡を見ないように努め、思いださないように努める。
 私は「いづこへ」の女とズルズルベッタリの生活から別れて帰ってきたのであった。母の住む蒲田の家へ。「いづこへ」の女と私は女の良人の追跡をのがれて逃げまわり、最後に、浦和の駅の近くのアパートに落付いた。そこで私たちはハッキリ別れをつけて、私はいったん私のもと居た大森のアパートへ戻って始末をつけて、母の家へ戻ったのだ。
 すると、その三日目か四日目ぐらいに、あの人が訪ねてきたのだ。四年ぶりのことである。母の家へ戻ったことを、遠方から透視していたようであった。常に見まもり、そして帰宅を待ちかねて、やってきたのだ。別れたばかりの女のことも知りぬいていた。
 私はいったい、なぜだろうかと疑った。あの人に私の動勢を伝える人の心当
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