独者の夢想ぐらいはあるだろう。
 だが、すべては、私のワガママであったと思う。私は卑屈であり、卑劣であったが、思い上っていたのである。
 私があるとき談話の中で「女」という言葉を使ったとき、「女の人」と仰有い、とあなたは言った。私はヘドモドして、えゝ、ハア、女の人、うわずって言い直して、あやまったりしたが、私は然し、口惜しさで、あなたを軽蔑しきっていた。
 つまり私が、知り合いのさる女人をさして、その女が、と云った。すると矢田津世子は、その女の人と仰有い、と言うのだ。私の言葉づかいは粗暴無礼であるが、その女が、その女の人に変ったところで、その上品が何ものだというのであろう。
 イヤらしい通俗性、イヤらしい虚栄、それがあなたのマガイのない姿なのだ。そしてそれが、単に虚名をもたないばかりで、時計塔の住人を猿のようなミジメなものに考えさせているのだ。
 私は然し、その後の数年、物を書くとき、気がゝりで困ったものだ。その女、ではいけなくて、その女の人でなければならぬような、デリカシイのない言葉づかいをウッカリやらかしていないかと気がゝりで困ったのだ。
 そして私は、あさましいことに、女という字を書くたびにウッとつかえて、わざわざ女の人と書き直したことが何度あったかわからない。
 私はそれだけの人間でもあるのだ。なぜそれだけの人間として、矢田津世子の凡庸な虚栄につゝましく対処し、うけいれることが出来なかったのだろう。
 私はつまり思いあがっていたのだ。

          ★

 当時を追憶して私が思うことは、私はあれほどの狂気のような恋をした。然し、恋愛とは狂気なものではあるが、純粋なものではない、ということに就てだ。狂気とか、狂人という、いわば一つを思いつめた世界も、それを純一に思いつめたせいではなく、思いつめ方に複雑で不純な歪みがあり、その歪みが結局、狂気の特質ではないかと私は思ったほどである。つまり、人間を狂気にするものは、人間の不純さであるかも知れぬ、というワケになろう。
 然し、狂気の恋愛は、純粋なものと思われ易い。私とても、それを一応純粋なものと思うのは普通であり、すくなくとも、その狂的な劇しさに於て、これを純粋とよぶことは有りうべきことである。つまり情熱のみの問題としては、一応純粋と言うべきであろう。
 我々は概ね七八歳前後の幼年期に、年長の婦人に強い思慕を
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