、何物に、であるか、私は知らない。負けられぬ、勝ちたい、ということは、世俗的な焦りであっても、私の場合は、同時に、そしてより多く、動物的な生命慾そのものに外ならなかったのだから。
私は「いづこへ」の女が夜の遊びをもとめる時に、時々逆上して怒った。
「君はそのために生きているのか! そのためにオレが必要なのか!」
私にとって、私がそのことを怒るべき時期であったに相違ない。あの女とは限らない。どの女であるにしても、その事柄を怒らずにいられない時期であったと思う。
私は女の生理を呪った。女の情慾を汚らしいものだと思った。その私は、女以上に色好みで、汚らしい慾情に憑かれており、金を握れば遊里へとび、わざ/\遠い田舎町まで宿場女郎を買いに行ったりしていたのである。
私はこうして女の情慾に逆上的な怒りを燃やすたびに、神聖なものとして、一つだけ特別な女、矢田津世子のことを思いだしていた。もとより、それはバカげたことだ。もとより当時からそのバカらしさは気付いていたが、そうせずにいられなかっただけである。
一つの女体としての矢田津世子が、他のあらゆる女体と同じだけの汚らしさ悲しさにみちたものであることを、当時の私といえども知らぬ筈はない。それどころか、女の情慾の汚らしさに逆上的な怒りを燃やすたびに、私はむしろ痛切に、矢田津世子がそれと同じものであることを痛く苦く納得させられ、その女の女体から矢田津世子の女体を教えられているのであった。
それにも拘らず、逆上的な怒りのたびに、矢田津世子の同じ女体を、一つ特別な神聖なものとして思いだしてもいるのだ。
その矢田津世子は、私のあみだした生存の原理、魔術のカラクリであったのだろう。世に容れられず、といえば大きすぎるが、世に拗ね、人に隠れ、希望を失い、自信を失い、何がために生きるか目安を失い果てゝいる私は、私の生命の火となるものを魔術のカラクリに托す以外に仕方がなかったであろう。
それがカラクリであるにしても、ともかく、その二年間、私は矢田津世子によって生きていた。それを生命の火としていた。そのバカらしさを知りながら、その夢に寄生していたのである。
★
矢田津世子と再会して、混乱の時期が収ったとき、私の目に定着して、ゆるぎも見せぬ正体をあらわしたのは、矢田津世子の女体であった。その苦しさに、私は呻いた。
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