ての意識からふりかへるなら、自分の小説ほど白日の下で読むに堪へないものはない。
その小説に比べると手紙の方は今生きながら公開されても、むしろ社会人的な俗的な意識の上では恥もてれくさゝも少いと言へる。その反対に芸術家の意識の上では却つて恥を感じるのである。
芸術が現身《うつしみ》に負けることが、私はどうにもやりきれない。私は現実を殺したい。現実は卑小浅薄であると言ひすてなければならないほど、現実は余りにも無限の複雑を蔵してゐて、手出しができない感じである。現実の中では私はただ「まごつき」と「部分」の上をよろめき彷徨してゐるばかりで、全部を知ることは恐らく永遠にありえないのだ。現実を殺さなければ私の現実は幕があかない。
私は女を愛する自信がない、女には惚れられたいのであらうけれどもギリギリのところでは女に愛されることすらいやなのだ。どうもさうらしいと私は思つてみたのである。さうして、けれども決して淋しいなぞといふ感情はもはやそこに住んでゐない。そこに住む冷然たる住人はきつとこいつが芸術家だと思つた。
(下)
牧野信一は葉書に用件を書くと余白ができて困るといつて大
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