概は絵葉書ですましてゐた。だから封書をもらつても原稿紙一枚以上の長さのものは殆んどなかつた。長い手紙は書けないと頻りに言つてゐたのである。
 ところが死後になつてみると、婦人へ宛てた手紙では無駄な饒舌を綿々と書いた思ひもよらぬ長いものがあるらしい。といふやうなことを言つて面白がるのは意味ないことだと私は思つてゐるのである。故人の書簡を調べたり伝記をひつくりかへしたりする「作家研究」といふ形式が、それが一体大学生の暇つぶし以外の何になるのだと私は思ふ。
 四五日前竹村書房の大江勲がやつてきた。大江は私の竹馬の友で、私のあらゆる出版はみんな自分が引受けると一人でのみこんでゐる男だから、私は遺言第一条の件を伝へた。生れつきづぼらの性で遺言状も書き忘れて死ぬ懼《おそ》れがあるから、手紙や日記(尤もそんなものはつけてゐない)の出版はやらないやうに呑みこんでゐてくれと言つたのである。気のいい男だから忽ち胸を張つて、俺の眼の黒いうちは金輪際保証すると大呑みこみに呑みこんだ。
「然し君」と大江は言ふ「君の小説は一向大衆に親しまれないかも知れないが、その無茶苦茶な喧嘩の手紙やキザな恋文は大いに受けるかも知れないのだがね……」
 これはもう人生的な笑話で、べつだん腹は立たない。
 昔私と関係のあつた一人の女はまだ十七だと云ふのにひどく文字を知つてゐて、私の小説の誤字を一々指摘するのには、感心するよりも、私自身があんまり文字を知らないのに呆れ返つたことがあつた。又もうひとりの女は字の下手なのを見せるのが厭で、手紙は必ず妹に代筆させるならひであつたが、代筆の便がないときには必ず用件を電報で打つので私はひどく腹が立つたが、いくら私が怒つてみても字を見られるのはいやと見え、たうとう電報を打ちとほしてしまつた。
「青い馬」といふ同人雑誌をやつてゐたとき、葛巻義敏と喧嘩した。すると葛巻から僕の怒りは誤解だといふ説明をかいた手紙がきた。葛巻は芥川龍之介の甥で又その影響を最も強く受けて居り、殊に簡潔(サンプリシテ)を説くコクトオの研究家でもあるくせに、文章の綿々たる冗漫さといつたら私の比ではないのである。このときの手紙は原稿紙に百数十枚、切手が四十何銭か五十何銭はりつけてあつた。あんまり退屈だと思つたら読まずに棄ててしまつていい、自分はただ書かなければならなかつた、と断り書がしてあつたが私は足掛二日か
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