であらうと行列が悪からうと全く気にしてゐなかつたのが、手紙のたびに一々気にするやうになり、さういふ気づかひの厭らしさを意識するたびに、その話をした友達を憎むこと頻りである。私の恋文はまたこの果し状と同じでんで、あるときはキザなこと話にならず、また或時は熱に浮かされて何がなんだかてんで分らず、また或時は深謀遠慮を逞うして恋の手管をつくして居り、思ひ出してもはづかしくて顔が赧《あか》らむ状態だから、メリメとはだいぶん違ふ。
私は遺言状の第一条に書かうと思つてゐるのである。「死後書簡の出版を絶対に禁ず」これは私の「はづかしさ」からだと思つてはいけない。手紙どころか小説の方が恥だらけだ。今更はにかんでゐるわけではないのである。
昔書いた小説はとにかく、近頃の私の小説は、私の好きな女達には一番読んでもらひたくない小説である。一婦人の心を射ること万人の心を射ることに通じ、万人に読まれたいといふ小説も一婦人に読まれたいために書かれたといふ小説に比べたなら、私は恥をさらすために小説を書いてゐるほど今は汚辱に没頭してゐる。その汚辱に毅然たるものゝ閃めきもなく、ひとたび芸術家の意識を忘れて、社会人としての意識からふりかへるなら、自分の小説ほど白日の下で読むに堪へないものはない。
その小説に比べると手紙の方は今生きながら公開されても、むしろ社会人的な俗的な意識の上では恥もてれくさゝも少いと言へる。その反対に芸術家の意識の上では却つて恥を感じるのである。
芸術が現身《うつしみ》に負けることが、私はどうにもやりきれない。私は現実を殺したい。現実は卑小浅薄であると言ひすてなければならないほど、現実は余りにも無限の複雑を蔵してゐて、手出しができない感じである。現実の中では私はただ「まごつき」と「部分」の上をよろめき彷徨してゐるばかりで、全部を知ることは恐らく永遠にありえないのだ。現実を殺さなければ私の現実は幕があかない。
私は女を愛する自信がない、女には惚れられたいのであらうけれどもギリギリのところでは女に愛されることすらいやなのだ。どうもさうらしいと私は思つてみたのである。さうして、けれども決して淋しいなぞといふ感情はもはやそこに住んでゐない。そこに住む冷然たる住人はきつとこいつが芸術家だと思つた。
(下)
牧野信一は葉書に用件を書くと余白ができて困るといつて大
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