手紙雑談
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)従而《したがつて》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あまのぢやく[#「あまのぢやく」に傍点]
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(上)
スタンダアルやメリメのやうに死後の出版を見越して手紙を書残した作家がある。私も少年の頃はさういふ気持が強く一々の手紙に自分の存在を書き刻むやうな気持であつたが、その努力が今ではすべて小説にとられ、手紙は用件を書きなぐるのが精一杯で、死後の出版を見越した魂胆は微塵もない。
自分の存在を書残したい願望は誰の心にもあることで、日記なり手紙なりに思のすべてを書きとめようとする努力は極めて自然なものであらうが、スタンダアルやメリメのやうに一家を成した小説家が、手紙の中でも存在を書残さうといふ意味がちよつと分らない時がある。メリメのやうなあまのぢやく[#「あまのぢやく」に傍点]は小説と違つた自分を手紙の中に用意して死後の効果を狙つたのかも知れない。彼等はその生涯作家であるよりも文学愛好者(アマトゥル)的態度を失はなかつた特異な文人でもあつたから、小説であれ手紙であれ、書かれるものすべてが一様に自己を語り自己を残したい願望のあらはれであつたのかも知れぬ。また元来が紅毛人は自己を主張する点では日本人ほど抑制力がない。従而《したがつて》その野心のあらはれも逞しいから、小説だけでこと足らず余剰勢力が手紙に及ぶといふことが有りうるのかも知れないし、他面セビニエ夫人等を指すところの手紙作家(エピストレエル)といふ特殊な名詞があるのでも分るとほり、日本人の手紙に比べるともともと紅毛人の手紙は一人に読ませるよりも万人に読ませる意識が強いのだ。サロンなぞで、貰つた手紙を公開し朗読するといふことが、普通行はれてゐたのかも知れない。尤も私の想像である。
私は廿二歳の晩秋愈々頭が狂ひさうになつたのでいつ自殺してしまふのか自分でも見当がつかないと思はずにゐられなかつた。そこでその頃たつた一人の友達だつた山口といふ岸田国士門下の俳優の卵へあてゝ書置きめいた手紙を送つた覚えがある。死んだらこれこれのノートへ書きとめておいたものを機会のあるとき世へ出してくれといふ意味だつた。この山口といふ男は当時の私のたつた一人の友達だが(もう一人沢辺といふのがゐたがこれはほんとに発
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