狂して巣鴨の保養院に入院中であつた――)私が日夜の妄想に悩み孤独を怖れて連日彼を訪れるものだから、彼は私の蒼白な顔とギラギラ底光りのする眼付に怯えて、突然夜逃げをしてしまつた。怖るべき孤独のまぎらす術《すべ》を失つた私は彼の無情を憎んで、見つけ次第絞め殺してやらうといふ想念に苦しめられて弱つた。
これは余談であるが、さて彼へ送つた書置き中の「これこれへ書きとめておいたもの」といふのは、其後になつて読んでみると一読滑稽でさへあるほど幼稚きはまりないもので、先年すべて八ツ裂きに破つて棄てた。あのとき死んであれだけが私であり書置きの通りれいれいしく世に現れたら滑稽な話であるが、こんな話で分るやうに、私の少年時代はただ我武者羅に自分の生命力を意識すること、また存在を残すことに狂奔してゐた。言ふまでもなく其頃は手紙を書くにも万人を意識し、死後世に現れることを期待もし意識してゐた。今は然しさういふ意識は影もない。手紙を書くのがひとへにわづらはしいばかりである。
けれども私はよく手紙を書く。書きだすとたまつてゐたことを一気に吐きだすことになるので大概六銭から十八銭の切手をはる。十八銭以上のことは一度もなかつた。その文章が支離滅裂で意味の分らないことが多いといふ話であるが、手紙の文面の責任なんぞ私は知らないといふつもりだ。
(中)
紅毛の文人は婦人へあてた恋文でさへちやんと死後の出版を意識したらしいものがあり、太刀打ちできない思ひをさせる。尤も彼等にしてみれば、一婦人の心を射ることは万人の心を射ることに通じ、万人に読まれたいといふ小説も一婦人に読まれたいといふために書かれたものかも知れないから、彼等の恋文が差し向ひの裸の恥を綺麗にごまかし万人向きの儀礼の中で恋を語つてゐるにしても不思議はない。然し私の恋文はさういふ立派なものではなかつた。
私は友達と喧嘩をして、むかつ腹を立てながらひどく長い手紙を書いた覚えが七八回ある。口惜しさに前後不覚の状態だから文面は怒りの流れるにまかせ、これまた混沌として何が何やら私が何に腹を立ててゐるのやら手紙を貰つた友達の方でとんと見当がつかなかつたといふ話である。三枚はつた切手の行列の悪いこと、その切手がまた逆様で、切手を見ただけで已に風雲ただならぬものを感じてひどくくさつたといふ友達の話をきいて以来、私はそれまで切手が逆様
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