粋一念の心掛けも、見栄の魔力も、及ばなかった。
 往昔、花の巴里《パリ》にも、そのような時があったそうな。十七世紀のことだから、この物語に比べれば、そう遠くもない昔である。スキュデリという才色一代を風靡《ふうび》した佳人があった。粋一念の恋人たちも、ちかごろの物騒さでは、各の佳人のもとへよう通うまいという王様の冗談に答えて、賊を怖れる恋人に恋人の資格はございませぬという意味を、二行の詩《うた》で返したという名高い話があるそうな。
 紫の大納言は、二寸の百足《むかで》に飛び退いたが、見たこともない幽霊はとんと怖れぬ人だったから、まだ出会わない盗賊には、怯《おび》える心がすくなかった。それゆえ、多感な郎子たちが、心にもあらず、恋人の役を怠りがちであったころ、この人ばかりは、とんと夜道の寂寞を訝《いぶか》りもせず、一夜の幸をあれこれと想い描いて歩くほかには、ついぞ余念に悩むことがないのであった。
 一夜、それは夏の夜のことだった。深草から醍醐《だいご》へ通う谷あいの径《みち》を歩いていると、にわかに鳴神がとどろきはじめた。よもの山々は稲妻のひかりに照りはえ、白昼のごとく現れて又掻き消えたが、
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