ことではない。仕事には全力を賭けること、これは仕事というもの、つまり生きることを真に理解するものには当然のこと、むしろ、生のほかに死後というものを考える人の方に、生きることの全的な没入や努力は分らないのだろうと思う。生きること、全我を賭けて努力し生きることを知るものには、死後はないと私は思う。
告別式の盛儀などを考えるのは、生き方の貧困のあらわれにすぎず、貧困な虚礼にすぎないのだろう。もっとも、そういうことに、こだわることも、あるいは、無意味かも知れない。
私が人の葬儀に出席しないというのは、こだわるからでなく、全然そんなことが念頭にないからで、吾関せず、それだけのことにすぎない。
もっとも、法要というようなものは、ひとつのたのしい酒席という意味で、よろしいと思っている。
私の死後でも、後始末が終ってのちに、知友に集ってもらって、盛大に飲んでもらって、私が化けてでて酩酊することができるぐらいドンチャン騒ぎをやらかして貰うのは、これは空想しても、たのしい。
私は家人(これは女房ではなくて、愛人である)に言い渡してあるのである。私が死んだら、あなた一人で私の葬式をやり骨の始末をつ
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