きちがへてゐる場合が多い。自由とは責任がそれに伴なはねばならぬ、といふこと、これは今日|屡々《しばしば》言はれることであるが、かういふふうに一言にして言ふことは易いが、真に自由の中に責任を自覚するには、深い教養を必要とするものである。
 自由は地獄の門をくぐる。不安、懊悩、悲痛、慟哭に立たされてゐるものである。すべて自らの責任に於てなされるものだからである。人が真実大いなる限定を、大いなる不自由を見出すのも、自由の中に於てである。自由は必ず地獄の中をさまよひ、遂に天国へ到り得ぬ悲しい魂に充たされてゐる。
 昔から自由と自由人は絶えたことがない。文学がさうだ。宗教も哲学もさうであつた。封建思想は旧式だと、一言で片附けるのは間違ひで、自由に対する絶望が、凡夫の秩序を自ら不自由に限定せしめるやうに作用した歴史の長い足跡があつたのだ。そしてかかる日本の封建思想を完成せしめた孔子は実に自由人であり、永遠の現代人であり、而《しこう》して彼の現身《うつしみ》は保守家ではなく、反逆者であつた。彼は自由を闘つた反逆者だ。
 キリストもまたさうである。彼は反逆者であつた。ハリツケにかけられた罪人だつた。そ
前へ 次へ
全9ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング