むだけが能ではない。同じ考へる生活でも、考へる根柢の在り方によつては、むしろ考へることによつて考へない人よりも愚劣な知識があるものだ。知識は偽はることの多いものである。
 ただ生き方の問題だ。教養といふものは、生き方の誠実さが根柢である。
 だいたい日本の道徳は、昔から不義はお家の法度などといつて、恋愛は罪悪だといはれてゐた。昔ばかりではない。今でも自由結婚といふ。特に自由結婚といふのだ。つまり恋愛のことだ。
 なぜ自由がかくも軽蔑されたか、自由を軽蔑し、不自由な鋳型の中に人間を縛らうとする古いモラルが間違つてゐるばかりでなく、自由自体に古いモラルを真実訂正する実力がなかつたのだらう。
 幕末に、オランダ語の自由といふ語が初めて飜訳の必要にせまられた時、当時の蘭学者は訳語に窮したばかりでなく、自由とは何か、その意味からが判らなかつた。そして「わがまま」と訳したといふ。実際当時の思想では、自ら欲し自ら行ふ真実自由なる生活自体がなかつたので、自由とはわがまま以上に理解しなかつたのは当然だ。然しこれを昔の笑ひ話と思ふのは軽卒で、今日日本人の自由といふとき、尚多くの人は五十歩百歩、わがままと履
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