き終つて後に、自分を発見すべきである。
 これに就ては、然し、作家が小説を書くに当つて、作家の意識せざるものを書きうる筈がないといふ反対があるかも知れぬ。創作とか創造とか、如何ほど言つてみても、それは読者に対してのことで、作家自身はその意識を通らない何事をも書きうる筈がない。さういふ反駁である。
 然しながら、我々の意識が、すでに決して万能ではないことを、忘れてはならない。我々の意識には、その各々の角度と通路とがあつて、一度、意識を設定するや、他の角度と通路にある意識を見失はなければならない。従而《したがつて》、我々は、対象を限定した以上は、如何ほど意識に忠実であり、対象を追求し、正確に表現しても、意識の角度と通路の外の真実は常に逃してゐるのである。
 僕は小説を書きながら、その悔恨の最大のひとつは、巧みに表現せられた裏側には、常に巧に殺された真実があつた、といふことであつた。
 僕は、できるだけ自分を限定の外に置き、多くの真実を発見し、自分自身を創りたいために、要するに僕自身の表現に外ならぬ小説を、他人の一生をかりて書きつゞけようと思つてゐる。
 さて、僕は本題の作家論を言ひ忘れたが
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