ぬ思ひになつたのは去年の暮のことで、然し、今、尚、この小説を正視する勇気はない。

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 今尚かくの如き私であるから、私はこの墓を書きすてることによつて、すべてを墓に封じ得るどころか、むしろひろがる悪夢に悩み、新らたな視野へ生活へ、かどだつことは不可能だつた。この本を出版後の東京に於ける一ヶ年の荒れ果てた生活、次に利根川べりの取手といふ町の一ヶ年の流浪生活、それから更に一ヶ年、小田原に於ける流浪、私の魂が流浪し、さまよひ、淪落の底にまみれて、ともかく私が多少とも新らたな発足を新らたな視野を自覚し、表現し得たのは、三年の後のことであつたのだ。
 そして私が、ともかく今日につづく、やや確信的な何か、表現すべき何かに就いて信念と自覚を持ち得たのも、「吹雪物語」によつてでなしに、吹雪物語を書いた後の自信の喪失、絶望、その京都に於ける絶望の生活からの内省と、その脱出のための苦しみの結果であり、私の新生は、私の過去を埋めた墓の土を起して現れずに、その墓を作りつつあつたときの私の生活、墓の母胎たる私自身の絶望の生活から現れてきた。思へば私は「吹雪物語」を墓のつもりにしてゐたが、それを作らせ、意志させた私の絶望と、その脱出へのかすかな希願が、まことに絶望を埋める私の真実の墓たり得たので、私は尚、私の卑小な絶望に、それを真実封じうるまことの墓を今日も尚、作り得てゐない。
「吹雪物語」は、ただ墓の影であり、その墓は名ばかり、真実屍を土中に埋めてゐない。空虚な、カラの墓であつた。
 私が、ここに、かかる虚しい墓、インチキな墓碑銘を敢て怖れげもなく再版する度胸をもつに至つたのは、ともかく、過去のインチキな悪戦苦闘が今日の私に至るカケガヘのない道であつたことは確かであり、私が今日の私を敢て怖れず世に問ふ限り、過去の私を世に問ふことを怖れるべきでないことを信じ得るやうになつたからだ。
 私の過去の作品はすべて幼稚で、インチキで、惨たるものだ。嘘いつはり、心にもない虚勢、見栄、絶望。しかし、今日の私に至るともかく愚か者は愚か者なりの精一杯の悪戦苦闘がそこに在ることを、私は切なく、懐かしむ。思へば愚か千万な私であり、人が一里の道を私は十里に二十里に、曲りくねり、ぬかるみ、山路、川を泳ぎ、あへぎつづけてきたやうなものだ。
 そして私の現身は、今尚、更に別な風に、廻り道をしたり、
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