だけ必要なもので、大衆は決して原語によつて読まねばならぬ必要もなく、原語でなければ分らぬ性質のものでもない。すべてを現代語で読ませる方が、むしろ大衆に「言葉を読ます」、文学を文学として鑑賞し、思想を思想として読ましめ、真実の教養を与へることゝなるのである。分りきつたことではないか。これくらゐ分りきつたことが日本の学校教育の根本に欠けてゐるのだから、日本人の知識教養の地盤がすでにナンセンスで、従つて日本在来の常識伝統、まつたく不健全、矛盾きはまるものだ。
綜合雑誌などいふものはこの不健全な学問的情熱から現れた妖怪変化の一匹で、枕の草子や源氏物語の一端を原書で読まされて言葉の解釈だけで悪戦苦闘して後援つゞかず全然枕の草子も源氏物語も文学として鑑賞しなかつたくせに、その無駄に就て疑ることも知らず、学問はさういふものだと思ひこんでゐる知識人が、そのマニヤックな好学精神によつて知識教養とは読んでも分らぬところに尊厳がある、高遠なるものだ、有りがたいものだ、そんな程度の心がけで、拝読したり陳列したり、そして疑ることがない。綜合雑誌は日本好学精神の生きた見本で、衒学空虚、まことに悲しい存在である。
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