会はないつもりでゐるけど、別れる時ぐらゐ甘いことを一言だけ言つて。また、会はうつて、一言だけ言つてよ」
 僕は、それには、返事ができなかつた。
「君も、どこか、知らない土地へ旅行したまへ。たつたひとりで、出掛けるのだ。さうすれば、みんな、変る。人はみんな、自分と一緒に、自分の不幸まで部屋の中へ閉ぢこめておくのだ。僕なんかゞ君にとつて何でもなくなる日が有る筈だといふのに、その日をつくるために努力しないとすれば、君の生き方も悪いのだ。ほんとの幸福といふものはこの世にないかも知れないが、多少の幸福はきつとある。然し、今、こゝには無いのだ。特に、プラットフォームで、出発を見送るなんて、やりきれないことぢやないか」
 然し、女は去らなかつた。プラットフォームに突立つて、大江にも話しかけず、たゞ、黙つて、僕の顔をみつめてゐた。その眼は、怒つてゐるやうに、睨むやうにすら、見えた。汽車が動きだすと、女は二三歩追ひかけて、身体を大切になさいね、身体全体がたゞその一言の言葉だけであるやうに、叫んだ。不覚にも、僕は、涙が流れた。大江は品川まで送つてくれた。

       二

 隠岐和一の別宅は、嵯峨にあ
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