には子供がなく、主婦の姉の子を養女にして、これがアサ子十七歳、三人家族で、使用人はない。
この夫婦が冗談でなく正真正銘の夫婦であることを信じるまでには、いくつかの疑念を通る必要があつた。夫婦は四十三、齢と同じぐらゐに老けて、然し、美人であつた。髪の毛がちぢれて赤く、ちよん髷ぐらゐに小さく結んで、年中親爺をどなりつけながら、駻馬《かんば》のやうな鼻息である。文楽の人形の男の町人の身振りは、手を盛んに動かし、首をふり、話の壺でポンと膝をたゝいたりして賑かなこと夥しいが、この主婦が女のくせにそれと同じ身振りである。気の強いこと夥しいくせに、「うちはなア、気が弱いよつてに、そないなこと、ようできん」といふ科白を五人前ぐらゐ使用する。本人は本気でさう言つてゐるのだから、薄気味悪くなるのである。五尺四寸ぐらゐもあつて、然し、すらりと、姿は綺麗だ。けれども、痩せてゐる胸のあたりは、どうしても、女の感じではなかつた。
一方、親爺の方は、五尺に足らないところへ、もう腰が曲つてゐる。まだ六十だといふのに七十から七十四五としか思はれぬ。皺の中に小さな赤黒い顔があつて、抜け残つた大きな歯が二三枚牙のやうに飛び出してゐる。歩く時には腰が曲つてゐないのだが先づ一服といふ時には海老のやうにちゞんでしまふ。部屋にぐつたり坐つてゐるとき、例へば煙草だとか、煙管だとか、同じ部屋の中のものを取りに行く時が特にひどくて、立上つて、歩いて行くといふことがない。必ず這つて行くのである。這ひながら、うゝ、うゝ、うゝ、と唸つて行く。品物を取りあげると、今度はそのまゝ尻の方を先にして元の場所へ這ひ戻るのだが、やつぱり、うゝ、うゝ、うゝ、と唸りで調子をとりながら戻つてくるのだ。年中帯をだらしなく巻き、電車の踏切のあたりで、垂れかけた帯をしめ直し、トラホームの目をこすり、ついでに袖の先で洟《はな》をこすつてゐるのだ。
世の常の結婚ではないのである。世の常の結婚でないとすれば、この二人が、どのやうにして結ばれたのであらうか。多少の恋心といふものがなくて、あの女がどうして一緒になる筈があらう。けれども、二人の結婚について、僕は殆んど知つてゐない。訊いてもみなかつたのだ。たゞ、問はず語りに訊いたところでは、主婦は昔どこか売店の売子をしてゐて、親爺がこれに熱をあげて、口説き落したのだと言ふ。売子の頃はいくつぐらゐだつたのか、それも訊いてみなかつたが、騙されたのですがな、と主婦は言ふ。親爺は昔札つきの道楽者で、たらしこまれたのだと言ふのだが、ほんとはどうだか分りやしない。だが、親爺は、聖護院《しょうごいん》八ツ橋の子供であつた。京都の名物の数あるうちでも、八ツ橋は横綱であらう。聖護院八ツ橋は正真正銘の元祖なのだが、親爺はそこの長男で、然し、妾腹であつた。だから、この女と一緒になると、つぐべき家を正妻の子供にゆづる意味で、自ら家出したのだといふ。立派なぼん/\であつたのだ。然し、今、その面影は微塵もなく、誰の見る目も、最も家柄の悪いうちの出来損つた子供の成れの果だとしか思はない。
親爺は食事毎に一本づゝの酒をのむ。それだけが生き甲斐といふ様子であつた。その次に、碁が好きだ。ところで、好きこそ物の上手なれ、といふ諺もあるが、又、下手の横好き、といふ言葉もあり、然し、これぐらゐ好きなくせに、これぐらゐ、下手だといふのも話の外だ。たゞ、生き死にの原則だけ知つてゐるに過ぎないのだ。もとより、上達の見込みもない。僕も碁はいくらか好きで(このあとで熱中していくらか強くなつたのだが、この時はまだそんなに好きではなかつた)田舎初段に井目置く手並であつたが、親爺を相手にすると、井目風鈴で百のコミをだしても、勝つ。つまり、親爺の石は大方全滅してしまふのだ。馬鹿々々しくて二度とやる気になる訳がなさゝうなものではあつたが、外の遊びといふものに興を持ちきれない僕は、たゞ気を紛らすための理由だけで、こんな碁でも、結構、たのしかつた。親爺の乞ふにまかせて、相手になつてゐたのである。
親爺も手並が違ひすぎて、いくらか、気になつたのであらう。やがて、関といふ人を客に招くやうになつた。関さんは四十三歳。こゝの主婦と同年である。昔は伏見で酒屋であつたが、失敗して、今は稲荷のアパートの一室にくすぶつてゐる。酒の取引のことで、親爺の古い知己であつた。碁は僕と親爺の中間で、まづ、僕に六七目の手並であつたが、それでも親爺に勝ること数百倍だ。
関さんは失業中だから、喜び勇んで、毎晩くる。食堂は店をしめるのが二時で、関さんの碁も、それまで頑張る。関さんは単純極る人で、自分の慾に溺れるばかり、思ひやりがとんとないから、下手な親爺と打つよりは、あくまで僕とやりたがる。僕はほと/\困却し、親爺はふくれる。僕も弱つて、こゝに一策を案出し
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