古都
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)鵜殿《うどの》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大概|肯綮《こうけい》に当つてをり
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#丸十、322−19]食堂
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)まる/\と
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一
京都に住もうと思つたのは、京都といふ町に特に意味があるためではなかつた。東京にゐることが、たゞ、やりきれなくなつたのだ。住みなれた下宿の一室にゐることも厭で、鵜殿《うどの》新一の家へ書きかけの小説を持込み、そこで仕事をつゞけたりしてゐた。京都へ行かうと思つたのは、鵜殿の家で、ふと手を休めて、物思ひに耽つた時であつた。
「いつ行く?」
「すぐ、これから」
鵜殿はトランクを探しだした。小さなトランクではあつたが、千枚ばかりの原稿用紙だけが荷物で、大きすぎるくらゐであつた。いらない、と言つたが、金に困つた時、これを売つてもいくらかになるだらうから、と無理に持たされた。
書きかけの長篇ができ次第、竹村書房から出版することになつてゐたので、京都行きを伝へるために電話をかけたが、不在であつた。その晩は尾崎士郎の家へ一泊し、翌日、竹村書房の大江もそこへ来てくれて、送別の宴をはらうといふわけで、尾崎さん夫妻が、大江と僕を両国橋の袂の猪を食はせる家へ案内してくれた。自動車が東京駅の前を走る時、警戒の憲兵が物々しかつた。君が京都から帰る頃は、この辺の景色も全然変つてゐるだらう、と、尾崎士郎が感慨をこめて言つたが、昭和十二年早春。宇垣内閣流産のさなかであつた。
僕が猪を食つたのは、この時が始めてゞあつた。尾崎士郎も二度目で、彼は二三日前に始めて食つて、味が忘れかねて案内してくれたのである。少し臭味があるが、特に気にかゝる程ではない。驚くほどアッサリしてゐて、いくら食つてももたれることがない、といふ註釈づきであつた。
飾窓に大きな猪が三匹ぶらさがつてゐた。その横に猿もぶらさがつてゐたが、恨みをこめ、いかにも悲しく死にましたといふ形相で、とても食ふ気持にはなれない。猪の方は、のんびりしたものである。たヾ、まる/\とふとり、今や夢見中で、夢の中では鉢巻をしめてステヽコを踊つてゐる様子であつた。豚や牛では、とても、かうはいかないだらう。牛などは、生きてゐる眼も神経質だ。猪といふ奴は、屍体を目の前に一杯傾けても、化けて出られるやうな気持には金輪際襲はれる心配がない。無限に食つた。大丈夫だ。もたれない、と尾崎士郎がけしかける。
そこを出たのは八時前で、まだ終列車には間があつたので、大江と二人、女のところへ一言別れを告げに行つた。黙つて行く方が良くはないか、と大江が言ふが、僕はハッキリ別れた方がいゝと思つた。大江と女は東京駅まで送つて来た。女とは、それまでに、もう、別れたやうなものではあつたが、気持の上のつながりは、まだ、いくらかあつた。
「君は送つてくれない方がいゝよ」と僕は女に言つた。「プラットフォームで汽車の出る時間待つぐらゐ厭な時間はないぜ」
けれども、女は送つてきた。
「気軽に一言さよならを言ふつもりだつたんだが、大江の言ふ通り、会はない方が良かつたのだ。どうせ最後だ。二度と君と会ふ筈はないのだから、暗い時間を出来るだけ少くしなければならない筈だつたのに」
「分つてるのよ。二度と会へないと思ふし、会はないつもりでゐるけど、別れる時ぐらゐ甘いことを一言だけ言つて。また、会はうつて、一言だけ言つてよ」
僕は、それには、返事ができなかつた。
「君も、どこか、知らない土地へ旅行したまへ。たつたひとりで、出掛けるのだ。さうすれば、みんな、変る。人はみんな、自分と一緒に、自分の不幸まで部屋の中へ閉ぢこめておくのだ。僕なんかゞ君にとつて何でもなくなる日が有る筈だといふのに、その日をつくるために努力しないとすれば、君の生き方も悪いのだ。ほんとの幸福といふものはこの世にないかも知れないが、多少の幸福はきつとある。然し、今、こゝには無いのだ。特に、プラットフォームで、出発を見送るなんて、やりきれないことぢやないか」
然し、女は去らなかつた。プラットフォームに突立つて、大江にも話しかけず、たゞ、黙つて、僕の顔をみつめてゐた。その眼は、怒つてゐるやうに、睨むやうにすら、見えた。汽車が動きだすと、女は二三歩追ひかけて、身体を大切になさいね、身体全体がたゞその一言の言葉だけであるやうに、叫んだ。不覚にも、僕は、涙が流れた。大江は品川まで送つてくれた。
二
隠岐和一の別宅は、嵯峨にあ
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