つた。その別宅には隠岐の妹が病を養つてゐて、僕の逗留には向かなかつたので、伏見に部屋を探してくれた。計理士の事務所の二階で、八畳と四畳半で七円なのだ。火薬庫の前だから特に安いのかと思つたら、伏見といふ所は何でも安い所であつた。然し、この二階には、さう長くゐなかつた。さうして、語るべきこともない。
引越した晩、隠岐と僕は食事がてら、弁当仕出屋を物色にでかけた。伏見稲荷のすぐ近所で、仕出屋はいくらもある。然し、どれも薄汚くて、これと定めるには迷ふのだ。京阪電車の稲荷駅を出た所に、弁当仕出の看板がでゝゐる。手の指す方へ露路を這入ると、まづ石段を降りるやうになり、溝が年中溢れ、陽の目を見ないやうな暗い家がたてこんでゐる。露路は袋小路で、突き当つて曲ると、弁当仕出屋と曖昧旅館が並び、それが、どんづまりになつてゐる。こんな汚い暗い露路へ客がくることがあるのだらうか。家はいくらか傾いた感じで、壁はくづれ、羽目板ははげて、家の中はまつくらだ。客ばかりではない。人が一人迷ひこむことすら有り得ないやうな所であつた。
「これはひどすぎる」
隠岐は笑つた。僕も一応は笑つたが、然し、これでも良かつたのだ。むしろ、これが丁度手頃だとすら思へた。たゞ命をつなぐだけ、それでいゝ。汚いにしても、普通の弁当仕出屋と趣きが違つてゐる。仕出屋として汚いのではないのだ。溝の溢れた袋小路。昼も光のないやうな家。いつも窓がとぢ、壁は落ち、傾いてゐる。溝からか、悪臭がたちこめ、人の住む所として、すでに根柢的に、最後を思はせる汚さと暗さであつた。たゞ命をつなぐだけなら、俺にはこの方がいゝのだ。光は俺自身が持つより仕方がない……僕はさう思つた、さうして、戸をあけて這入らうとしたが、戸は軋むばかりで開かず、人の気配もなかつた。弁当のことは宿の人に頼むことにして、僕達は稲荷の通りへでゝ、酒をのんで別れた。
ところが、宿主の計理士が頼んでくれた弁当屋がこの家で、そればかりではなく、三ヶ月ぐらゐの後、この宿を出なければ、ならなくなつたとき、計理士が代りに探してくれた部屋が、この弁当屋の二階の一室であつたのである。かうして、僕は、人生の最後の袋小路に住むことになつた。僕は気取つて言ふのではない。僕と隠岐が始めてこの袋小路へ迷ひこんだとき、二人が一様にさう感じて、なぜともなく笑ひだした露路なのだつた。
伏見稲荷の近辺は、京都でも一番物価の安い所だ。伏見稲荷は稲荷の本家本元だから、ふだんの日でも相当に参詣者はある。京阪電車の稲荷駅から神社までは、参詣者相手の店が立並び、特色のあるものと言へば伏見人形、それに鷄肉の料理店が大部分を占めてゐる。ところが、この鷄肉が安いのだ。安い筈だ。半ば公然と兎の肉を売つてゐるのだ。この参道の小料理屋では、酒一本が十五銭で、料理もそれに応じてゐる。この辺は、京都のゴミの溜りのやうなものであつて、新京極辺で働いてゐる酒場の女も、気のきかない女に限つて、みんなこゝに住んでゐる。それに、一陽来復を希ふ人生の落武者が稲荷のまはりにしがない生計を営んでオミクヂばかり睨んでゐるし、せまい参道に人の流れの絶え間がなくとも、流れの景気に浮かされてゐる一人の人間もゐないのだ。
然し、僕の住む弁当屋は、その中でも頭抜けてゐた。弁当は一食十三銭で、労働者でも満腹し、僕は一日二食であつた。酒は一本十二銭。それも正味ほゞ一合で、仕入れは一樽四十円であつたから、儲けといふものがいくらもない。僕は毎晩好きなだけ酒をのみ、満腹し、二十円ぐらゐで生きてゐられるのであつた。
この弁当屋で僕はまる一年余暮した。その一年間、東京を着て出たまゝのドテラと、その下着の二枚の浴衣だけで通したと言へば、不思議であらうか。微塵も誇張ではないのである。夏になればドテラをぬぎ、春は浴衣なしで、ドテラをぢかに着てゐる。多少の寒暑は何を着ても同じものだ。さうして、時々は酒をのみに出掛けもしたし、祇園のお茶屋へも行つた。さういふ店で、とりわけ厭がられもしなかつたのだ。つまり、京都には僕のやうな貧書生が沢山をり、三分の二人前ぐらゐには通用する。それは絵描きの卵なのだ。ぼう/\たる頭を風にまかせ、その日のお天気に一生をまかせたやうな顔をして、暮してゐる人々はあの連中を絵師さんだの先生とよび、とても大雅堂なみにはもてないけれども、とにかく人間なみにはしてくれる。警察の刑事まで、さうだつた。だから僕も絵師さんとよばれ、二ヶ月ぐらゐ顔もそらず洗はなくとも平気なやうな、手数の省ける生活を営むことが出来たのである。
三
弁当屋は看板に※[#丸十、322−19]食堂と書いてあるが、又、上田食堂とも言つた。上田といふのは主婦の姓で、亭主の姓は浅川であつた。これだけでも分るやうに、亭主は尻に敷かれてゐる。二人
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