た。これは至極の名案であつたが、後には、自縄自縛、自らを墓穴へうづめる大悪計ともなつたのである。
親爺にすゝめて、碁会所を開かせることにしたのであつた。幸ひ食堂の二階広間があいたまゝになつてをり、こゝは僕の二階と別棟だから、大勢の客が来てもうるさくない。碁会所には必ず初心者も現れるから、その相手には親爺があつらへ向きである。次に関さんを碁会所の番人にする。碁席は同時に関さんの寝室ともなり、給金はないけれども、食事を給する。関さんはその奥さんが林長二郎の家政婦で、乏しい月給をさいて衣食住を仕給されてゐるのだから、丁度よい。次には、僕で、十秒ばかり歩くだけで、好きな時に、適時に碁を打つことができる。三方目出度し/\である。
碁会所は警察の許可もいらなかつた。関さんの勇み立つこと。僕も乗気で、下手な字で看板を書いてやらうと思つたら、日頃は大ケチの親爺まで、無理に僕の手を押しとゞめ、看板屋へ自ら頼みにでかけるといふ打込み方であつた。この看板屋が又、絵心があるといふのか、袋小路のどん底の傾いて化け物の現れさうな碁席であつたが、白塗りに赤字でぬき、華車《きゃしゃ》な書体で、美術倶楽部と間違へさうな看板だつた。親爺は満悦、袋小路の入口へぶらさげ、停留場を降りると、誰の目にもつくのである。
然しながらヘボ三人では碁席の維持ができにくい。そこで初段の人を雇つてきた。さて、蓋をあけてみると、この初段が大悪評だ。別の初段に変へてみると、これも悪評、あれも悪評。そのうち常連の顔ぶれも極つてみると、みんな僕以下の下手ばかりで、先生などはいらないから、たゞ碁を打てばいゝのだと言ふ。常連会議一決して、先生をお払ひ箱にしてしまつた。
けれども、一日に一人や二人は強い人も来るのである。みんな常連がヘボだから、二度と来なくなつてしまふ。京都では、僕のやうな風体の者が絵師さん、つまり先生で、親爺は先生と呼ぶ。親爺は物覚えの悪い男で、僕の所へ速達が来ても、え、坂口はん、きいたことのない名前やなあ、と言ふ。だから年中お客の名前をトンチンカンに呼び違へ、陰では符牒でよんであるのだ。だから、僕はこの家では名無し男で、常に先生であり、たゞ先生で、先生以外の何者でもなかつた。結局碁会所の常連達にも、僕はたゞの先生で、名前がなく、先生以外の何者でも有り得ないことになつてしまつた。
みんな先生と言ふものだから、知らない人は碁の先生だと思つてしまふ。知らないお客は大概僕より遥に強い連中だから、僕も慌てた。そのうちに、あの碁会所はヘボ倶楽部だ。大変な先生がゐるといふやうな噂がたち、ヘボ倶楽部とは巧いことを言ひやがる、と一同感心、カラ/\と大笑したが、気がついてみると、とにかく、自分のことである。これだけ常連が揃つてゐるのだから誰か一人ぐらゐ世間並なのがゐさうなものだが、と顔見合せ、さういふことになつてみると、常連の中では、とにかく僕が一番強いし一番若い。先生、しつかり頼うまつせ、といふやうなわけで、僕も大志をかため島といふ二段の先生について修業を重ねることゝなつた。寝ては夢、さめては幻、毎日々々、たゞ、碁であつた。部屋の中には忽ち碁の書物が積み重り、新聞の切抜が散乱し、道を歩く時には碁のカードを読んでゐる。碁会所へ来るので顔見知りの特高の刑事に、ヤア、大変な勉強ですな、と四条通りで肩を叩かれる。散歩といへば、古本屋で碁の本を探すだけで、京都中の碁の古本は、あらかた僕が買占めたやうなものだ。その代り、二ヶ月ぐらゐたつと、とにかく、田舎初段に三目ぐらゐで打てるやうになつた。近所にチヌの浦孤舟といふ浪花節の師匠がゐて、この近辺では一番強く、ヘボ倶楽部を吹聴した発頭人であつたが、まもなく再び碁会所へ現れるやうになり、僕も互先で打つやうになつた。
東京を捨てたとき胸に燃してゐた僕の光は、もう、なかつた。いや、この袋小路の弁当屋へ始めて住むことになつた時でも、まだ、僕の胸には光るものが燃えてゐた筈だつたのだ。隣りの二階は女給の宿で赤い着物がブラ下り、その下は窓の毀れた物置きで、その一隅に糸くり車のブン/\廻る工場があつた。裏手は古物商の裏庭で、ガラクタが積み重り、二六時中拡声器のラヂオが鳴りつゞけ、夫婦喧嘩の声が絶えない。それでも北側の窓からは、青々と比叡の山々が見えるのだ。だが、僕には、もう、一筋の光も射してこない暗い一室があるだけだつた。机の上の原稿用紙に埃がたまり、空虚な身体を運んできて、冷めたい寝床へもぐりこむ。後悔すらもなく、たゞ、酒をのむと、誰かれの差別もなく、怒りたくなるばかりであつた。
毎晩十二時に碁をやめる。常連の中の呑み助は、これから階下で車座を組んで十二銭の酒をのむ。山口といふ巡査上りの別荘番は、アル中で、頭から絶え間もなく血がふきだし、それを紙で拭きとつては
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