オカミサンは次第に商法の方も手を上げたのだ。
二敗から二対二まで持ちこんだ大山は、第五局目の対局にこの宿へついた時、
「ぼくは勝ちますよ」
と、事もなげに断言していたそうである。手合前の木村は慎重にかまえて、口数も少かったが、大山はハシャイで明るかったという。
オカミサンは女中一同を集めて厳命を下した。
「お二人のどちらが勝っても負けても、あなた方は知らんぷりしていなさい。この旅館の者全体が勝敗に無関心でなければいけません。かりそめにもどちらかにヒイキの態度など見せてはいけませんし、どなたが勝ってもオメデトウも云ってはいけません。係りの女中だけは最少限度にオメデトウぐらいの表現はしてもよろしい」
この訓辞は賞讃すべきであろう。こういう訓辞を与えうるオカミサンは、たしかにタダモノではない。一流の人物である。彼女の多くの言行もそれを裏書きしているようだ。
この勝負は大山が負けた。彼はまだ若年だから、あれほど生来の落付きをもっていても、気持ちのおのずからの浮き沈みを真に鎮静せしめることができないようだ。
★
去年の初夏のことであった。当時私は読売に小説を連載していたから、上京の機会も多く、その時は読売にも私にも親しみの深いこの旅館で仕事をするのは当然であった。
私が本当に酔っ払うと、風の如くに行方不明になるのは二十年来のことである。近頃はメッタに大虎にもならないが、昔はよくやった。むかし浅草でノンダクレていたころは、酔っ払って女の子(みんな浅草の女優であるが)を口説くのはまだ中の部で、ひどい時には淀橋太郎と一日半ノンダクレたあげく、森川信の楽屋から廊下をまわって松竹少女歌劇の楽屋へ行ってダンシングチームに一席の訓辞をたれ、つづいてその廊下の突き当りから国際劇場の舞台真上の鉄骨の上へ登りました。役者が芝居している頭の上からウマイゾ/\と声援したです。若年のみぎりスポーツできたえたせいか、どんなに酔っても足がふらつくことがないので、落ちて死ななかったのは幸せだった。その時以来浅草に勇名なりとどろき、私の酒の酔いッぷりに例をとって小安吾、中安吾、大安吾という言葉が行われたそうであった。つまり誰かが酔っ払って御婦人に礼をつくしはじめると、そろそろ中安吾になりやがったな、というグアイであったそうだ。十年前の話である。
ちかごろ旋風を起す数は減ったけれども、時々大安吾になるのは、治らない。モミヂ宿泊中とてもそうで、フッと大安吾になったが最後、風となってどこへ消えたか、誰にも分らない。私自身も翌日目がさめるまでは、どこにいるのか分らぬのである。というのは、モミヂを出発する時から前後不覚に泥酔しているからである。サンダルを突ッかけて、ちょッと買い物の途中から、気が変って行方不明になることもある。
さてその日はユカタに下駄ばきでいずれへか立ち去った。人の話をしているようだが、どうもこの時は仕方がない。ふだんはそんなに酔うことがないのだが、この日は日中から来客があって泥酔したのである。こういうこともあろうというので、新聞社、雑誌社、モミヂ旅館、いずれも要心おこたりなく、上京宿泊中は誰にも知らせず、どこにも分らぬように仕掛けが施してあるのだが、この時は原稿に一段落してちょッとヒマがあったから、折からの来客と共に酔いつぶれたのだろう。
翌朝、目をさましたところは九段である。その待合の女将は今は故人になった落語家の雷門助六の奥さん。角力《すもう》のように背が高くてデップリふとっていて、大酒のみで、ジメジメしたところのない人物である。人生を達観していて一向にクッタクがない。こういう豪傑然とした婆さんは珍しいが、抜けるところは甚しく抜けていて、いわゆる女将型のりりしいところはなく、ノンビリ落ちつき払っているだけなのである。
私が目をさますと風呂の用意ができている。一風呂あびて、婆さんと飲んだ。
私がモミヂから着て出たユカタは大男の私にはツンツルテンであった。
「ウチにちょうどよいユカタがあるよ」
と云って、婆さんが持ってきたのは、九段の祭礼用のお揃いのユカタであった。ちょうど九段の祭礼の前夜か前々夜に当っていたらしく、花柳街はシメをはりチョウチンをぶらさげていたのである。
「まだ私は手を通していないのだから。これならちょうどよろしいわよ」
という。なるほど、婆さんのユカタなら私に合うわけだ。五尺五寸五分とかいう大婆さんなのである。
婆さんと酒をのんで酔っ払い、じゃア、サヨナラと自動車をよんでもらって午《ひる》ごろ無事モミヂへ戻ってきた。私は着て出たユカタが変っているのを忘れていたのである。抜け作の婆さんも酔っているからそんなことは気がつかなかったろうし、気がついても気にかけることのない大先生なのである。
そ
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