の後、折があったらユカタを届けてやろうとその時だけは思ったが、祭礼の季節がすぎれば用のないユカタであるから、まったくユカタのことは忘れてしまった。ユカタは私の係りのマチ子サンという女中がセンタクして押入へ投《ほう》りこんでしまったのである。
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読売新聞は碁の方は呉清源を一手に握っているから、朝日の棋院大手合、毎日の本因坊戦に比べて、まさるとも見劣りのない囲碁欄であるが、将棋の方は他社の名人戦に比べて、勝抜き実力日本一決定戦(当時)などと云っても甚だ影がうすい。実力日本一といったって、名人戦があるのだから、名人即ち実力日本一。碁における呉清源のように公式手合に不参加の大家というものが居ないのだから、万人がそう認めるのは当然だ。単に実力日本一では影が薄いこと夥しいから、名人の名に対抗しうる権利の象徴が必要だ。苦心サンタン編みだしたのが、九段決定戦。
昔は九段を名人と云ったものだ。もしくは、名人は九段に相当するものと考えられていたのである。しかし現在も昔の形式を守らねばならぬという必然的なものがある筈はない。碁の方にも名人でない九段が二人もいるのだから、名人のほかに将棋九段が現れてもおかしくはない。柔道は十何段ある。そこでトーナメントの優勝者に九段を与えることになった。
この企画は一応成功したようだ。棋士たちが九段という名に魅力を感じ、それに執着して戦局に力がこもってきたからだ。トーナメントの形式は従前通りほぼ変りはないのだが、名というものは理外の魅力があるものだ。勲章などもそうであろうが、勝負の世界はまた別で、相手をうち負かして一人勝ちのこった認定、そのハッキリした力の跡を九段の名で表彰されるのだから当人の満足も深い。棋士たちの間には新聞社私製の九段が何だ、と云う反旗を示す者があるにしても、九段位争奪戦というものがあって、当人もそれに参加して争って負けた以上は九段が何だと云えなかろう。勝てばいいのだ。勝負の世界はハッキリしていて、負けた者は負け、これをくつがえす何物もない。勝負は水ものだと云えば、昇降段戦名人戦も水もの、それを云えばキリがない。負けた者は負けたのである。
そこでトーナメントに優勝し、最初の九段になったのが大山であった。
この大山という勝負師はまことに珍しい鋼鉄性の人間である。誰しもスランプというのがある。木村にはスランプらしいものはなかったが、塚田にうち負かされて名人位を落ちた直後の一年はサンタンたる不成績であった。木村ほどの豪の者でもそうだ。塚田は名人位を失ってのち、いまだに混迷状態から脱け出せない。碁の藤沢は九段を得てのち甚しく不成績であるし、木谷も長いスランプがうちつづいている。
すべてスランプというものは、技術上のことではなくて、精神の不安定がもたらすのであろうが、大山にはそれがないように見えるのである。
塚田が名人位に就いたとき、最初の挑戦者となったのは若冠二十五の大山であった。彼はB級から一躍とびあがってA級の上位三者をなぎ倒して挑戦者になったが、その落付きと年間のめざましい戦績から、世間の大半は彼の勝利、大山次期名人を疑わなかったようである。私もそう思った。
大山は若年にして老成。礼儀正しく、対局態度は静かで、一言にして重厚という大そうな人物評価を得ていた。観戦者が筆をそろえて、彼の重厚な人柄を賞讃していたものだ。
ところが、この名人挑戦対局に至って、いちじるしい変化が起った。彼の重厚な人柄が一変していたのである。倉島竹二郎君の語るところによれば、ただ、呆れるばかりであったというが、不遜とも何とも言いようがなく、すでに自分が名人にきまったかの如く塚田をなめてかかり、それが言行の端々に露骨に現れ、正視しがたい生意気、無礼な態度であったということである。塚田がよく奮起してこの思いあがった小僧をひねりつぶしたのは大手柄であった。
大山の無礼不遜な態度は観戦した人々によって厳しく批判された。敗れた彼に同情した者は――ヒイキは別にして、公平な将棋ファンには殆どなかったようである。彼の敗北を惜しんだ者もいなかった。思いあがった小僧が名人にならなくて良かったというのが万人の胸のうちであったのである。
負けた上に、これぐらい世間のきびしい批判をあびれば、誰しもクサルのが当り前だ。ましてや初陣そうそうのことである。ところがこの若者は古狸でも三四年は寝込むようなきびしい悪評の中で、冷静に、動揺することなく、またしても順位戦に好成績をあげ、わずかに木村との最後の挑戦者決定戦に敗れたが、A級順位戦では彼が第一等であったように記憶する。
次の年もA級優勝、挑戦者となり、はじめ二敗、つづく二局を二勝して二対二にもちこみ、第五局目モミヂの対局に於て、
「ぼくの勝ちですよ」
言々句
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