々に再びウヌボレが現れていたのはモミヂの女中たちすら指摘するところである。対塚田の名人戦に現れた思いあがりが、さすがに年功をつみ、それを抑えて控え目に、露骨ではなくなっていても、胸の浮きたつ思い、軽卒な思いあがりは脱しきれなかった。苦しい負け将棋のあと二対二にもちこんだユルミ、年相応のウヌボレの結果である。この軽卒な思いあがりによって、つづく二局を木村にひねられてしまったのである。
 彼ほど老成し、冷静な勝負度胸をもった男でも、ウヌボレからは脱出できない。彼はいつもウヌボレで失敗した。しかし、落胆や負けによって動揺したことがないのである。斬っても血がでないとはこの男である。
 即ち、対木村の名人戦に、二対二からウヌボレによって軽くひねられた直後に、一向に動揺なく、読売の九段戦に優勝し、又、その後の順位戦でも最優秀のまま、二位の升田と数日後に挑戦者決定の一局を行うことになっている。ウヌボレによって再度の不覚はとったが、敗戦の落胆によってスランプにおちたことがないという珍しいコンクリート製の青年なのである。彼は斬られても負けないが、自家出血でひとり負けするのである。
 彼は再度名人位を望みながら、大きな魚に逃げられてしまったが、よく自分を抑えて九段位をかちえた。最大の魚は逃したが、まず、まず、であろう。勝ち目になるとウヌボレに憑かれて失敗する彼のことであるから、勝ったよろこび、その満足もウヌボレも大きいのだ。
 彼は九段位をかちえて間もなく上京し、モミヂへ泊った。読売の招きや行事で上京するときは、概ねここに泊るのだ。私が用を果してモミヂを去ってから数日後のことであった。
 彼の係りは私の係りとは違うのである。その女中が大山のユカタをとりだすために押入をあけたら、センタクしたばかりのユカタが一枚たたんで置いてある。私がまちがえて九段からきてきた祭礼のユカタだとは彼女は知らないから、大山のところへ持参した。
 私が一度手を通しただけのユカタで、それをキレイに洗ってあるから、まるで仕立おろしのようであった。
 大山は何気なくそれをとって着ようとして、その模様が変っているのに気がついた。
 唐草模様のような手のこんだものだが、しかしスッキリとしていてそう品の悪いものではない。そろいのユカタと云ったって、花柳地の姐さんがお揃いで着るものだから、イヤ味やヤボなところはない。姐さんのユカタだから模様はコッテリしているが、万事コッテリの関西育ちの大山の目には、いかにも気のきいた、イキなユカタに見えた。
 大山はビックリして、腕を通した片袖を顔の近くへひきよせ、やがてその裏をいそいでひッくり返して調べた。
 あまりのことに、彼は言うべき言葉を失ったのである。その模様には一目ではそれと分らぬように、いかにも粋な工夫をこらして、くだん、とか、九段という文字があしらッてあるのだ。
 彼はことごとく驚いた。名人位にくらべれば九段などはさしたるものではないようだが、さて九段になれば、九段は九段、人々は祝福し、彼はそれに満足であった。しかしこんな細いところにマゴコロをこめて、九段昇段を祝ってくれる旅館があろうなどと想像していなかった。誰がそのようなマゴコロを想像しうるであろうか。棋士を愛すること世の常ではない旅館なればこそであり、また好みの素ばらしさ、粋な思いつきは、天下の名士があげて集る第一流の旅館だけのことはある。
 若い大山の胸は感謝の念でいッぱいになり、目がしらがあつくなりそうだった。
 彼はホッと顔をあげて、思わずあからみながら、
「これ、ぼくのために、わざわざ、こしらえて下さッたんですねえ。光栄の至りです」
 係りの女中は何もしらないから、いそいで自分もユカタの模様をしらべて、ああ、そうか、それじゃア棋士の好きなオカミサンが大山新九段を祝って、かねて注文しておいたユカタだったのかと思った。偶然ながら、一番手近かに置いてあったのを持ってきて、ちょうど良かったと思ったのである。
「そうですわね。オカミサンがこしらえておおきになったんですわね。ずいぶん気のつくオカミですから」
「光栄です」
 小男の大山は自分の身体が二ツもはいりそうなユカタの中へ、満足に上気して、いそいで襟をかきあわせた。全身にあふれる幸福を一ツも逃すことなく全部包んでしまいたいように、アゴをすッぽり襟でつつんだ。アゴの上にユカタの襟がでていてもまだその裾をひきずりそうであったが、彼はそんなことが苦にならなかったのである。彼はモミヂにいる間、その大きなユカタにつつまれてバタ/\足をからませても満足していた。
 帰るとき彼は女中をよんで、
「これ、いただいて帰っていいでしょうか。記念に持って帰りたいのですけど」
「ええ、どうぞ」
「光栄ですねえ」
 彼は自分でテイネイにユカタをたたんでトラ
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