九段
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)呉清源《ごせいげん》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ウマイゾ/\
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 東京は小石川に「もみぢ」という旅館がある。何様のお邸かと見まごうのは、もとは何様かのお邸だから当り前の話。旧財閥や宮様の邸宅別荘が売り物にでて大旅館や料亭になっているのは全国的な現象で、この旅館に限ったことではない。
 ここが他といくらか違うのは、旧財閥の邸宅を買いとって旅館をひらいたのが、旅館業者や玄人筋ではなくてズブの素人。それも売った方と同じような身分のまア斜陽族――しかし、あかあかと斜陽を身にあびている没落者とちがって、こっちの方は瞬間的に没落期間があったかも知れないが、今では押しも押されもしない第一流旅館、大宴席。夕べともなれば高級車がごッた返して門前に交通整理の巡査が御出張あそばすほどの大繁昌だから斜陽などとはもっての外で、日蝕族とでも言うのだろう。ちょッと瞬間的に暗い期間があっただけさ。
 もう一つ変っているのは、ここの経営者は三人の姉妹であるということ。斜陽族に三人姉妹とくればチエホフにきまっているが、どういたしまして。さッきも申上げた通りの商売大繁昌、ニヒリズムなどと病的なるものは当家のどこにも在りやしない。
 三人姉妹にはそれぞれ旦那様のいらせられるのはムロンであるが、これは主として帳場に頬杖をついて帳づけなどに若干の精をだし、麻雀には見るからに精を入れていらせられるけれども、運転手の公休日や寝た夜などにお客を送り迎えするのは旦那様方で、そのチームワークは至れりつくせりである。
 さて、三人姉妹の呼び方がむずかしいや。日蝕族に何か天啓があって、これだ、と思ったのかも知れんが、一番姉さん、つまりこの旅館で最も敏腕を揮う中心人物を「オカミサン」というのである。二番目の元三田の小町娘は姉さんよりも身長が高く、テニスがうまい。そのほかはゴルフをやっても碁をやっても英語をやっても万端姉サンに歯が立たない。これを「マダム」というのである。三番目のおとなしい妹を「奥サン」というのです。もう一ッぺん順序通りに並べて書きますから、まちがえないように覚えていただきます。一、オカミサン。二、マダム。三、奥サン。私は女中たちが彼女らの女主人の一人について語るとき、それが三人の中の誰であるかということを正しく判断するまでにはほぼ三年の歳月を要したのである。
 姉サンだけあって、オカミサンの才能は抜群らしい。デブデブふとった女将タイプとはちがって、小柄の痩せぎすのいかにも女らしい美人であるが、見かけによらぬ敏活なところがあるのである。ゴルフとダンスは達人の域だそうだ。碁は増淵四段に師事し、旅館業をはじめてから習い覚えたのが、五年目に初段格。毎週一回英国婦人が英語を教えにくる。バイヤーの旅館だから英語の心得がいるのである。私が時々仕事部屋に使う離れの附属座敷が教室で、勉強の様子が手にとるように聞えてくる。はじめは一家族、女中に至るまで出席していたが、自発的に脱落して、いまではオカミサンがただ一人の生徒である。彼女の会話の稽古は閃くままに間違った単語を喋りまくるという心臓型であるが、閃かない時には「エエット」と日本語で考え、先生が単語のまちがいを正してやると、「ア、シマッタ」と呟く式の稽古ぶりである。しかし尚もひるむところはなく孤軍フントウ稽古をつづけているところ、見かけとちがってオカミサンは剛気であり、大そう負けギライらしい。マダムも相当の負けギライであるが、姉サンの実力にはシャッポをぬいでる趣きがある。
 オカミサンが碁に凝って増淵四段に師事して以来、女中に至るまで碁をうち、ついに「碁の旅館もみぢ」という異様な看板を辻々へ揚げるに至った。碁の旅館といえば人は碁会所の観念を旅館に当てはめる。碁会所というものは、むさぐるしく小さい所である。お金持や、貧乏人でも気のきいた人は碁会所などはひらかない。碁の旅館などと看板をだせば先ず普通に人が考えるのは、小さくて汚い旅館、ほかに自慢の種がないから、亭主が多少碁に腕に覚えのあるのを頼りに窮余の策をめぐらしているのだろうということだ。こんな大邸宅大庭園を擁して碁の旅館とはピント外れのようだが、外れるどころか大当りに当ったのだから、今や日蝕族のピントは日本を征服するに至るだろうと思われるほどである。つまり財界官界などのお歴々や会社官庁などがここのいくつかの広間を碁会に使用するに至って、彼女らの日蝕は終り、かの白光サンたる太陽が再びきらめきはじめたのだ。つまり碁会を縁に普通の宴会席に移行したからである。したがって日蝕族の神様は碁であり、つながる縁で私のようなヘボな横好きでも大そう厚く遇せられるという思いがけ
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