ない結果になった。
 私が「もみぢ」を知ったのは、足かけ四年前になる。呉清源《ごせいげん》と岩本本因坊の十番碁が読売新聞の主催で行われることになり、その第一回戦がこの旅館でひらかれたのである。私は観戦記をたのまれた。手合の前日の夕方、平山記者が現れて、
「社の自動車を用意してきましたが、これからモミヂへ行って、一パイのんで、ねむる、というのは、どうですか」
「明日の朝九時までに必ず行きますよ」
「本因坊、呉清源両氏も夜の七時までに集るのですから、あなたも」
「オレは観戦記を書くだけだ。明朝の九時までに行けばタクサンだ」
 平山終戦中尉、憲兵のようにニヤリニヤリと笑う。
「今晩七時にモミヂにつく。一パイのむ。一風呂あびてねむる。ちょッとしたダンドリですな。悪くない」
 こう出勤を疑われてはこッちも自信がくずれるから、やむを得ず自動車で運ばれて行った。これがモミヂの門のくぐりぞめというものであるが、呉清源氏が前夜来神様と共に行方不明で夜十二時に至るまでモミヂへ来着しなかったから、呉清源係りの多賀谷前覆面子は食事が文字通り一粒もノドへ通らないのである。本因坊と私とが一パイのんでいる傍で、にわかに両手で頭をかかえて、
「アアッ!」
 と、断末魔の一声をふりしぼって、ぶッ倒れ、空虚な目をやがて力なく閉じて、
「オレは死んだ方がいいや」
 背中をタタミへすりつけるようなモガキ方をして、やがて全然動かなくなる。
「フーッ」
 鯨のような溜息を吐いてモゾモゾ起き上り、
「アア。もうダメだ。オレは泣きたいよ。イヤ。泣く涙もでないや」
 フラフラといずれへかよろめき去る。また、よろめいていずこよりか戻ってくる。私たちが彼に話しかけても、その声が彼の耳にとどくことはメッタになかった。
 平山中尉の疑い深い招請に応じたおかげで、悩める人間がどのような発作を起すかということをツブサに見学することができたのである。この時以来、上京のたびにここへ宿泊するようになった。
 酔っぱらっていた私は初対面のオカミサンを二十六七かときいて女中に笑われてしまった。彼女には二十すぎた子供がいるのである。
 オカミサンは十九になった息子に、
「あなたはもう大人だから親の世話になってはいけません。自分の力で工夫して食べて行きなさい」
 と、なにがしかの資本金を与えた。見たところはただワガママなお嬢様育ちという愛くるしいオカミサンに見えるのだが、キゼンたる魂と、烈々火のような独立精神の権化なのである。息子は養鶏をやったが思わしくなかったので、ブローカーに転業して母親の旅館へせッせと物資を売りこんだ。ところが母親たるオカミサンが値切るだけ値切るので、全然商売にならないのである。息子は怖れをなして独立の商業を断念した。母親に売りこんでもモウケがないのだから、よその主婦が相手では売るだけ損になるだろうと世の怖しさを知ったのである。あきらめが早すぎたというものだ。彼は運わるく東京中で一番怖るべき婦人のところへ、一番先きに、一番多く物資を売りこみすぎたのである。彼は独立の商法をやめて銀行員となり、殺人鬼の襲撃以外には平和な一生を約束された生活につくことができた。
 姉さんの激しい気性に圧倒されて育ったせいか、マダムも一通りの負けギライで相当のスポーツウーマン、勝負ごとに相当強いらしいけれども、烈火の気性は全然ないのである。ある日、女中が一冊の多彩の花模様の日記帳を持ってきた。スミレと星と花と雪、これをタカラヅカ調というのかナ、それにしてもこの日記帳はタカラヅカ幼稚園、最低学年用のものに相違ない。
「マダムのお嬢さんにたのまれたのですけど、生れ月日の下へサインして、感想欄のところへ何か感想を書いて下さいッて」
 なるほど署名欄は三百六十五日の日附になっていて、ところどころ生れた月日の下に誰かの署名がある。私も自分の誕生日のところへ署名した。
「マダムのお嬢さんは、いくつ」
「十九です」
「ホントかい?」
「いまのお嬢さん方はこれが普通でしょう」
 そうですかねえ。怖るべきはタカラヅカ。しかし、オカミサンの娘に生れると、十九になってこんな日記帳をたのしんでいることはできないのである。
 看板は碁の旅館であるが、何であれ大手合や勝負師が好きな旅館で、朝日へ手をまわして将棋名人戦もここでやった。私は見に行かなかったからハッキリ記憶がないが、木村大山が二対二のあとの第五局ではなかったかと思う。もっとも読売の方は、それまでにも碁のほかに将棋の方でも時々ここを使ってはいた。読売の将棋は呉清源を一手に抱えている碁にくらべて劣勢であるからそれまで問題にならなかったが、将碁名人戦の定宿の一ツになると、碁の旅館の看板ではさしさわりがあるから、その時以来、辻々に立てた碁の旅館の看板をおろしてしまったのである。
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