たち五日すぎても木田市郎は現れない。
 木田の名刺をたよりに△△商会を訪ねてみると、そこのマーケットはとつくに火事に焼き払はれて、今はキレイな原つぱになり、人々がキャッチボールをやつてゐる。
 失恋の苦しみなどゝいふ月並なものと話が違ふ。失恋などはたゞ夜がねむれない、不安、懊悩、タメイキ、まことに平和でよろしいものだ。最上清人の胸の不安、絶望感、それは類が違つてゐる。失恋などはせゐぜゐクビでもくゝつてケリであるが、最上清人は人のクビをしめつけて殺したい。木田やヘルメットの鼻ヒゲばかりぢやない、人間といふ人間どもをみんな殺して木にブラ下げてやりたいのだから、ピストル強盗などといふチンピラ共の荒仕事とは違つて沈鬱である。
 黙々とのむウヰスキーに血の絵画がうつる。どいつも、こいつも、しめ殺す。鋸《のこぎり》ビキ、火アブリ、牛ざき、穴つるし、水責め、なんでもやる。
 昔はいざとなりや自分の首だけしめつけてオサラバときまつてゐたが、今はもう、むやみやたらに人の首をしめ殺すことを考へて、頭が殺気でゴムマリのやうにふくれ上つて後頭の痛むこと。後頭へ二ヶ所ほど風孔《かざあな》をあけて、充満の重い殺気をだしたいやうな気がする。五分と枕に頭をつけてゐられず、いくら枕をとりかへてもダメ、枕の中に小石がまじつてゐるやうな堅い突起の手応へであるが、起き上つて枕をしらべると、枕のせゐぢやない。後頭のせゐなのである。後頭はとりかへるわけに行かない。
 戸をたゝく奴がゐる。昼間戸をたゝく音をきくと、一時に血が頭へ上つて、ハズミに身体が宙へとびたつ思ひがするのは、木田を待つ思ひの強さが胸にかくれてゐるせゐで、然し、やつてきたのは倉田博文であつた。
「ナンダ、君か」
「ナンダ、君かつてアイサツはないでせう。まさか、ヘエ、私です、と言ふわけにもいかねえだらうな。然し、そんなとき、ヘエ、私です、と答へるのも面白えかも知れねえな。時にゴキゲンは相変らずで、実は小々本日は話の筋があつて」
「もうダメだよ。元伯爵には用はないんだ。僕はもう、スッテンテンにやられちやつたんだから」
「スッテンテンとは、何事ですか」
 思へば倉田博文はかういふ時にはチョウホウな男であつた。忘れてゐた感情がふと胸によみがへつて最上清人はなんとなく涙もろい気持になつたが、一度大名となつた以上は、おちぶれても、おちぶれられない。逆に却つて、位の意識といふものが、にわかに激しく角をだす。
「実は紙を六百連買ふ約束をしたんだ。もう今日にもトラックが来る筈なんだが」
「ハハア。するてえと、あなたは六百連の紙代をヤミ屋さんに渡した、然し、得でども、いまだ紙来たらず、といふわけなんだな」
 カンのいゝ奴だ。一応の急所は忽ち見破る。然しトラックで運んできて、又それをトラックで持ち去られたといふ面妖なイキサツまでは気がつく筈がない。
「マア、さうだね。然し、そのうち、くるだらうさ。現品がちやんと在ることは分つてゐるのだから」
「それはあなた、現品はちやんと在りますよ。紙屋の倉庫にや、いつだつて紙は山とつまれてゐるにきまつてるぢやありませんか。然し、あなた、その紙は紙屋の物ではないですか。ヤミ屋の物ではないですよ。古い手ぢやないか。終戦以来、ヤミ屋の最古の手口だからね。狸御殿といふ殿様の手口ぢやないか。あの殿様の御乱行以来、紙に限つて、まさか日本に、同じ手口にかゝる御仁があらうとは、私は夢にも思はなかつたね。なるほど、こゝの店もタヌキ屋てえ名前だけれど、してみると紙と狸は因縁があるのかな。それは、あなた、洋服だの、キャラコだの、砂糖だのといふものは、まだ殿様の先例がないから、殿様の手口にかゝる御仁のタネはつきないけれど、紙に限つて、これはもう、きかない手口ときまつてるんだがな。だから、あなた、ヤミ屋さんも、紙に限つて、近頃はもつぱら新手できますよ。ヤミ屋さんには紙が有り余つてゐるんだからな。そこであなた現品を山とトラックにつみこんで、ピタリと亡者の店先かなんかへ、これを横づけにするです。現品取引だから、安心しますよ。よつてお金を渡して品物を受取る。するてえと、あなた、翌日カラのトラックへ役人みてえな奴が五六人乗りこんできて、昨日の紙をそつくり持ち去つてしまふです。つまりその紙は売買の品物ぢやアない、封印された品物で、世耕指令だか何だか知らないけれども、テキハツのきかない物品だとか何とか言ふんだな。むろん、これは一組のサギ団ですよ。サギてえものは、サギを封じる手段を弄すると、そいつが逆にサギの手段にされちまふから、これはあなた古今東西、かくの如くにして文明の進歩はキリがないです。私の知りあひの喫茶店と古本屋と質屋を営業して今度出版屋を狙ほふてえ新興財閥のイナセなところが、見事にこれにかゝつたです。かういふ新手にかゝ
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