金銭無情
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)仏蘭西《フランス》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)本国|仏蘭西《フランス》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ベタ/\
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   金銭無情

 最上清人は哲学者だ。十年ほど前、エピキュロスに於ける何とかといふ論文と、プラトンの何とかといふ論文を私も雑誌に見かけたことがあるが、その後は著作はやらなくなり、講壇に立つたことは一度もないので、哲学専門の学生でも彼の名は知らない。
 先日私のもとに訪れてきた雑誌記者の話によれば、彼の恩師のDD氏は、哲学界の新人は? といふ記者の問に答へて、さて、新人かどうか、彼はすでに旧人だが、と、最上清人の名をあげて、彼の思想はギリシャにもローマにも近代にも似てゐない、たゞ人間に似てゐる。最も個性的な仕事が期待できるのだが、彼は著作しないだらうと答へたといふ。実際彼は記者から執筆の依頼を受けて応じたことは、すでに十年、絶無であつた。
 私は然し他でも彼の評判を耳にしたことがあつた。QQ神父及びLL氏、LL氏は日本の大学では文学史や中世思想史を講ぜられたが、本国|仏蘭西《フランス》に於ては著名な羅典《ラテン》語学者で、私はこの御両名から、日本に於て本当に羅典語を解する人は最上清人だらうと承つたことがある。彼はそのころある書店で古典の叢書編纂に当つてをり飜訳者を探してゐた。私は彼と中学時代の同窓であるが、彼が羅典語に通じてゐるといふことは、その時まで知らなかつた。
 彼は昔、心中したことがあつた。相手の女は銘酒屋の娼婦で、女は死んだが、彼は生き返つた。警察の取調べを受けて、死んでも生きても同じことだ、と呟いたといふ。私は旧友の名を新聞記事の中に見出しながら吹きだしたのであるが、後日彼と交游を深めるやうになつて、僕は首くゝりを主張したが、女が催眠薬にしようと云つてきかなかつたんだ、僕は自殺は考へてゐたが心中といふ考へはなかつたので、女が催眠薬をのむといふなら、僕は僕で首くゝりをした方がよかつたんだが、僕が先に死んぢやつてぶら下つたんぢや怖しいと女が言ふんでね、万やむを得ず心中的になつちやつたんだ、と言つた。
 彼が著作をやめたのは、その頃からだ。彼は哲学者とよばれると、時にはおつくうさうに否定する。僕は人間しか見てゐない。宇宙を見なくなつたから、宇宙を見なければ哲学者ぢやないんだ、と呟いたこともある。そして、まア、人間観察家とでも言ふんだらう。そのほかに情熱もないんだからと言つたりしたが、近頃ではもう人間観察家とも自称しない。僕は飲み屋の亭主だと答へるのである。彼が自分とは何者かハッキリ答へるやうになつたのは全く近頃のことであり、はじめて彼はいくらか生き生きと自分は何者か、自覚した様子であつた。彼は「タヌキ屋」といふ飲み屋の亭主に相違ない。
 彼は心中をやりそこねるまでは独身だつたが、その後女房を五人かへた。そのうち二人は女の方から逃げだし、二人は彼が追ひだして、五人目は戦争中つとめてゐた軍需会社へ徴用で入つてきた女で、待合の娘であつた。結婚したとき、娘はまだ女学校を卒業したばかり、十九であつたが、清人は四十であつた。
 これはまつたく「幻想的」な結婚であつたと富子は自ら述べてゐる。
 富子は生家の職業によつて幼少から男には馴れてをり、女学校の頃から大学生と映画見物にでかけたり、お客に旅行に連れて行つてもらつたり、然し実の心は芸者や遊客の生態に反感を覚えてゐると思つてゐた。その実さういふ生態に同化して育つてしまつたといふことには気がつかないだけの話であつた。
 芸者は義理人情だの伊達引《だてひき》だの金より心だの色々に表向きのお体裁はあるけれども、本心はみんな単純な男好きで、美男子好みで、旦那に隠れて若い色男と遊んでゐる。富子も美男子好みで、色男の大学生や若い将校などゝ映画見物や物を食べにでかけるのが好きであつたが、そのうちに、さういふ自分をだんだん軽蔑するやうになつてきた。つまり芸者の世界を軽蔑するやうになり、自分はもつと高尚な別な人間だといふ風に考へる習慣がついたのである。
 だから十八ぐらゐからの富子の書斎をのぞいた人は呆気にとられた筈で、アランだのヴァレリイだのベルグソンだのテーヌだの、小説でもスタンダール、ボルテール、メリメ、プルウスト、ヴァンヂャマン・コンスタン等々、それに美学の本がたくさんある。なんでも表題に美といふ字のある有難さうな本はみんな買つたといふ感じなのだが、まつたく又一生懸命に読んだものだ。
 徴用の会社で清人と同時にまだ大学を出たばかりの美男子の技術家にも言ひよられ、待合へ遊びにきた青年将校にも結婚を申込まれて、これが又絶世の美男
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