子で、顔を見つめるとからだが堅くなつて息苦しくなり胸のぐあいが拳を握りしめるやうな感じになる始末であつたが、富子は美男子などは軽蔑すべき存在だと考へた。美男子を愛すなんて低俗で不純なことであり、高い恋愛はもつと精神的なものだと思つたのだ。
もとより小娘の幻想的恋愛論などゝいふものは、彼女にまことの恋愛が起つてしまへば一挙に効力を失ふものだが、富子は要するに美男子を見るとマッカになつたり息苦しくなつたといふだけで、恋愛までには至らなかつた。だから結婚は早すぎたので、当人も結婚の慾求などはなかつたのだが、生めよふやせよといふ時代思想で、十九などはもう晩婚の御時世であり、家も焼け会社も焼け、一家は田舎へ疎開といふ時に、なんとなく疎開がいやで、清人と結婚してしまつた。
然し、清人との結婚までには半年あまりの恋愛的時間があつた。富子はこれこそまことの恋愛なんだとその時は思つたのだから。
一方清人は四度目の女房に逃げられたあとの一人暮しで、哲学者といふところから富子に物をきかれたり本を貸したりするうちに、これは脈があるなと思ふと、こゝをせんどゝ食ひ下つて口説きはじめた。
彼は人間観察家などゝ自称はしても所詮は学究で、彼のアフォリズムなど実生活では役に立たない寝言の類ひ、惚れた女はいつも逃げられる始末であつたが、この美少女に成功したのは犬も歩けば何とかいふまぐれ当りで、美男子の競争相手があるのだから、不安になつたり、わくわくしたり、然し案外馬鹿な娘だななどゝ考へて、計画をねつてゐた。
富子の母親にはお金持の旦那があつて金に不自由がないから、娘を芸者に一稼ぎなどゝいふ考へはなく、然るべき男と結婚させてと大いに高い望みをかけてゐる。だから四十男の貧乏な哲学者など話の外だと思つてをり、無口で陰鬱で大酒のみで礼儀作法を心得ず、社交性がみぢんもなくて、おまけに風采はあがらない。一つも取柄といふものがないから頭から罵倒する。山奥から来て花柳地に住みついた女中共は半可通の粋好みだから悪評は決定的の極上品で、土の中からぬきたてのゴボウみたいだと言ふ。なるほど、うまい。全く孤影悄然、挨拶一つ言はず、頭をペコリとも下げないから土だらけのゴボウのやうだ。
富子は意地を張つた。周囲の悪評の故に、この恋は純粋高尚だと考へた。俗物どもに分らないから純粋なので、彼が色男でなく、お金持でもないから高尚なのだ。富子は男の高い知性だけを愛してゐる自分がひどく優秀で、俗ならぬ深遠な恋を神に許された特別な女のやうに考へた。
そこで清人もこれは知識以外の他のすべてをみすぼらしくする方が却つて好かれる方法だと知るに至つた始末で、富子はお金持だから、奢つてくれたり、ウヰスキーを持つてきてくれたり、ネクタイをくれたり、洋服をつくつてくれたり、遂にはお金までくれる。彼は嬉しさうな一本の小皺も見せず面白くもないといふ顔付をしてそれを貰ふ。すると富子は清人が高雅で精神的そのものだと云つてひそかに大満足するといふ寸法で、だから清人は外見はなるべくみぢめ貧弱にして、精神的高さといふものだけ見せるといふ戦法にたよつた。
元来は十九の美少女と結婚するのも亦《また》面白しといふ発願であつたが、意外やお金持で色々おごつてくれるから、これはもうお金のためにもぜひとも娘をものにしなければならないのだと考へた。金が宇宙の中心だといふのは彼の説で、だから彼は哲学などは馬鹿らしくなつてしまつたのである。
終戦後、破壊のあとは万事享楽から復興するといふ彼の明察によつて、富子の母の旦那からお金を貰はせて、駅前の横町へバラックをたて、一杯飲み屋を始めた。彼はカントの流儀によつて哲学は又食通だといふ建前で、ソースなどは自分で作れるぐらゐ、昔は相当料理の本を読んで、牛の脳味噌、牛の尻尾、臓モツの料理、雉の腹へ色々の珍味をつめて焼きあげる奴、マカロニ料理からチャプスイに至るまで自ら料理のできるほど色々と通じてゐる。そこで八月十五日正午ラヂオの放送が君が代で終ると、よろしい、もう相手はアメリカだ、進駐軍の味覚を相手に料理の腕をふるつて、大いにお金をもうけ、新日本のチャムピオンとなつてやるんだ、と野心を起した。もとより富子は大賛成で、母の旦那にたのんで大金をだしてもらつた。
バラックの出来上つたころはもう進駐軍は日本の一般飲食店へは這入れぬ定めになつたけれども、元来がさういふ魂胆の設計だから、ちよつとあちらの一品料理屋といふ感じで、コック場などもあちらのお客の潔癖に応じて安心感を与へるやうに工夫がこらしてあるといふ心掛けである。沈思黙考の哲人たるもの処世に於て手ぬかりはなかつた筈だが、あちらのお客はダメだとなつて、なんだ、日本人か、バカバカしい、彼は料理の情熱がなくなつた。そこであちら名の気のきいた店名なぞ三ツ
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