四ツあれこれ胸にたくはへてゐたのを投げだして、タヌキ屋、これでたくさんだ、お前、お金をもうけろ、もうけたお金は余が飲む、といふやうなわけで、彼はつまり、僕は飲み屋の亭主です、最も一般的な型をとることにしたのである。

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 富子は結婚してみて、哲学者だの精神的だの、凡そとんでもない、タヌキ屋、なるほど、まさしく宿六は大狸だと気がついた。大狸、大泥棒、まさしく宿六は金銭の奴隷、女郎屋のオヤヂ、血も涙もない、金々々、女房にかせがせておいてお金はみんな自分のふところへ入れ、自分は毎晩大酒をのむが、富子が十円のミカンを買つてたべてもゼイタクだと怒る。二日二晩ぐらゐ怒るのだ。
 哲人は実務にうといなどゝはマッカないつはり、ソロバン勘定にたけ、凡そソツがない、ちよつと料理をしても、富子も相当気転のきく女だけれどもうちの宿六にかゝつてはてんでダメで、庖丁や皿や醤油の壺の置き場所まで無駄足のないやう最短距離の心得によつて並べてあり、なんでもその流儀で、ツと云へばカと云ふ、めまぐるしいほど注意が行きとゞいて、太刀打ちができない。
 そのくせ骨の髄からの怠け者で、たゞもう飲み屋の亭主の一般的な型によつて、麻雀とか碁などで昼を送り、夜は虎になつて戻つてくる。哲学いづこにありや。精神的などゝはもうそんなことを考へたゞけでも富子の方がはづかしくて赤くなるぐらゐ、又、助平なこと、やたらにベタベタ、からんだり吸ひついたり、理想などゝいふものは何一つない。たゞもう守銭奴であり、大酒のみであり、大助平である以外に何もない。
 ベタ/\モチャ/\いやだつたら、このろくでなしの大泥棒、よその女に好かれるものなら好かれてきてごらん、一度でいゝから、好かれておいで。私はもうお前さんとは寝てやらないから。富子がかう叫んで起き上つて蹴とばしたら、宿六は洟水をたらして半分居眠りながら、人間か。この人を見よ。僕はさう言へる。そんなことを言つた。
 然し富子はうちの宿六はたしかにほんとに偉いんぢやないかと思ふことがあつた。それはつまり、守銭奴で大酒飲みで大助平で怠け者で精神的なんてものは何一つないといふのはつまり人間が根はそれだけのくせに誰もそれだけだといふことを知らないだけなんだ、といふうちの宿六の説がどうも本当にさういふものかしらと思はれるやうな時があるからである。然し本当にさうだつて、本当にさうでは困る。本当にさうだといふことなんか、ちつとも偉くないぢやないか。
 富子は芸者の生態に反感をいだいたことが失敗のもとで、若い美男子の好きなのが自分の本音であり、実際は芸者と同じやうに自分も浮気性なので、だから飜然本然の自分に立ちかへつてやり直してやれ、と考へた。
 そんな考へになつたのは「タヌキ屋」をはじめてお客の接待にでるからで、料理は女中がやる、富子が接待に当る、開店の時は美人女給も一名おいてみたけれども、お客の評判は富子の方がむしろ甚だ好評だから、まんざらではない、結婚して大損した、さういふ気持が強くなつた。
 するとそこへ現れたのは絹川といふ絶世の美男子で二十七になる会社員だ。油壺から出てきたやうなとはこの男で、お酒は一本しか飲まない、お料理は殆どとらない、そして長く話しこんで行く。毎日いらつしやいな、と言ふと、でも貧乏でダメといふから、富子は外のお客から高く金をとつて、値段は書きだしてないから高くとつても分らないので、それで宿六の知らない利潤をあげて、今日は半分にまけてあげるわとか、今日はお金はいらないことよ、とか、だから毎日おいでなさいといふ意味をほのめかしても五日に一度ぐらゐしか来ない。奥さんは美人だなア、とか、教養が高くて僕の始めての驚異の女性だなどゝ嬉しがらせを言つて帰る。然しどうもお酒を安く飲ませて貰う御義理の御返礼といふ感じでピッタリしないけれども、富子はそれを承知の上でなんとなく嬉しい気持になる。
 そこへもう一人現れた。ダンスホールのバンドにゐるというヴヰオリンをひく男で、三十歳、荒《すさ》みきつた感じだけれども、話してみると子供のやうな純粋なところがある。戦争中は満洲に流れてゐたといふが、まつたく見るからのボヘミアン、内職に闇屋をやつてお金をもうけてゐるなどゝいふのが、信用ができないやうな、何か痛々しいやうな感じがする。病的なぐらゐ透きとほるやうな白い顔で、荒れ果て澱んだ翳の奥に、冷めたい宝石のやうな美しさがたゝへられてゐる。悲しくなるやうな美しさで、よく見るとひどく高雅で、孤独で、きびしい何かゞある。
 瀬戸といふこの楽師は大酒飲みだ。来始めると毎晩きて、とことんまで飲む。かなり収入はあるやうだが、飲む分量が多すぎるから、忽ち借金はかさむ一方だが、そこで富子の心痛がふへた。清人は客の借金を極度に嫌つて、がむしやらに催促させ、借
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