るのは仕方がないけれど、狸御殿の殿様の手口にかゝるとは、哲学者てえものはヨクヨク貪欲で血のめぐりの悪い先生方のことなのかな」
最上清人は必死にこらへてゐるけれども、百度以上と思はれるフットウした熱血の蒸気が全身を駈けめぐつて、全然フラフラ、あとは何一つ分らない。うつかり動くと、耳だの鼻の穴から蒸気がふきさうに思はれる。つまり精神肉体ともにパンクしたといふのだらう。
まもなく全身蒸気が消えて、ひどく静かになつてきた。真空状態がきたのだらう。何もない。骨のシンまで、何もなくて、たゞ冷めたいといふ心細い意識しか分らない。死刑執行といふ時に、こんなふうに竦んでしまつて歩くことができなくなるのかも知れない。
「顔色が悪いぢやないか。クヨクヨしたつて、済んだことは仕方がないぢやないか。だから、あなた、今にして言へば、あなたみたいな世間知らずが然るべき軍師も持たずに単独で闇屋の親方みたいなことをやらうといふ大それたコンタンが迷ひの元と言ふものです。まつたく、あなた方をだますぐらゐ訳のないことはないのだからな。戦争中は軍需会社の親玉でも文士の先生でも、それはあなた、総力戦、ハイ総力戦、日本的、ハイ日本的、そんなこともやりましたけど、根はチャラッポコで、軍人さんの言ふことなんぞマにうけてゐる者は先づゐませんや。日本のインテリの中で本格的に軍人にだまされたのは哲学の先生ばかりで、日本的なんとかなんて、これはあなた、この先生方ばかりはまつたくムキなんだな。ムキになるのもいゝけど、ムキになつて、それでちやんと、宇宙と日本のツヂツマが合ふんだからネ、日本の大学校の哲学てえものは自在チョウホウな細工物なんだなア。いつたい、あなた、思索する、物理学とは違ふからね。人間を思索する、人間の世界を思索する、思索だけで間にあふから、どんな細工もきく代りに、実は全然根も葉もない、といふことを、それぐらゐのことに気がつくだけのゴケンソンも御存知ないといふのだから、これはあなた、だまされますよ。しかも御本人は、宇宙の元締、人間をだましたつもりでゐるのだから、可憐なる英雄です。失礼ながら、最上先生は御自分のブンを知らなければいけません。いつたいあなた、まかり間違へば自殺するからすむといふ、その心得ほど貧困きはまる古代的思想はないです。人間はいつも生きてゐなきやア。生きる、是が非でも生きる、生きるといふことが分らなきやア、第一人間の理想てえものが分る筈がないではないですか。生きるからには愉快に生きなければならん、よつて工夫が行はれる、文明開化の正体はそれだけのものなんだけど、そこんところが、どうして先生に分らねえのかなア。ともかく一杯のもうぢやありませんか。こんなことを喋りながら、何も飲まねえてえことは、それがつまり、文明開化の精神に反するものだといふことを、私なんぞは骨身に徹してゐるんだがな」
倉田はコップをとつてきて、チャブ台の上の最上の飲みかけのウヰスキーをなみなみとついで、一息に先づ一パイ、再びなみなみと半分ほどのんで、
「ウム、これはいける。久しくタヌキ屋で飲まないうちにタヌキ屋の品物は高級品になつたものだな。これは飛びきりのニッカぢやないか。こんなゼイタクなお酒をのんで陰鬱であらせられるといふ心持が分らないね。私なぞカストリていふ新日本の特産品をのんで、毎日面白をかしく世渡りができるんだから、人間の心持てえものは、実に工夫がカンヂンではないのかなア」
最上清人もやうやく心を取り直して、
「君の知り合ひがやられたといふヤミ屋は木田といふ男ぢやないの?」
「さて何といふ御仁だか、私は昔から犯人の住所氏名は巡査の手帳にまかせておくから、私の手帳につけてあるのはモッパラ愉快な人間の住所姓名に限るんだなア。そんな、あなた、犯人の名前なんぞ、何兵衛でもいゝぢやないか。だまされてから、捕へたつて、手おくれだよ、あなた。こんなに豪華なお酒があるのに、もつと何か、シンから楽しくなるやうな、何か工夫を致しませう」
「ふン、なれるものなら、するさ。僕は一人でゐたいのだから、愉快な御方は引きとつていたゞきませう」
「まアまア、あなた、人間も四十になつたら、ヤケだの咒ひだのといふものが全然ムダなネヅミにすぎないといふことを、理解しようぢやありませんか。よつて新しく工夫をめぐらす。私のやうな害のない単に愉快なるミンミン蝉を嫌つてはいけないでせう」
最上清人は返事もせずにフラリと立ち上つて、そのまゝ外へでてしまつた。そつちが出なきや、こつちが出る、といふ流儀なのだらう。
出る者は追はず、無抵抗主義は倉田の奥儀とするところで、おもむろにひとり美酒をかたむける。これも悪いものではない。
そこへサブチャン、ノブ公、パンパン嬢などが顔をだす。
「おや、パンちやんかい。さあ、アンちやんも
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