及び恐怖に悩みながら、ともかくウハベはいつも空うそぶいてゐられたのである。近頃はさうはいかない。
彼はもう孤独ではなかつた。多少の富と権力を握つたからで、死にやいゝんだと今までの口癖通りイノチの方をアッサリ突き放したつもりで空うそぶいてみても、富と権力を突き放すことができないから、もう哲学だの思想だのと、そんな悠長な世界ぢやない。思想が変つたなどゝいふ生やさしい話ぢやなくて、人間が変つてしまつた。変らざるを得ないのだ。つまり彼の哲学は、彼の人間によるものぢやなくて、もつぱら彼の境遇によるものであつたせゐなのである。
彼は昔、課長や重役にやられたよりも、もつと冷めたく命令し、コキ使ひ、怒鳴りつけ、口ぎたなく罵つた。弱者に対して全然カシャクするところがないのである。
昔は弱者には同類の親しみを寄せ、強者に空うそぶいてゐたが、近頃はあべこべで、強者に同類の親しみを寄せ、揉手《もみで》をしてオアイソ笑ひを浮べる。昔はまつたく笑つたことのなかつた顔だが、自然にほころびて、今日はいつもにくらべてお若く見えますね、だの、そのネクタイは好ましいです、などゝモンキリガタのお世辞を使ふ。
昔弱者に同類の親しみを寄せたころは、実際は彼は孤独で、親しみなどは寄せてはをらず、貧しく弱い己れをそのやうに眺めることによつて、なつかしんでゐたのであつた。
強者に親しむ今となつては、そのやうな自分を眺めてなつかしむ余裕などは、もはやない。揉手をする、オアイソ笑ひを浮べる、すると先方もいとインギン丁重に如才なくお返しするけれども、実はこつちを突き放して通りいつぺんの御愛嬌にすぎない。最上清人はさうぢやなくて、強者に同類を発見する、さうすることによつてしか自分を発見することができないといふ動きのとれないギリギリの作業を営んでゐる次第。同じオアイソ笑ひも品質が違つて、自分の方の貧しさが分らぬ男ではないから、近頃は無性に怒りつぽくて、弱い奴にはのべつ怒鳴りつけ罵つて蹴飛ばしかねない勢ひ。そのくせ新円階級に会ふと、まるでもうダラシなく自然に揉手をしてオアイソ笑ひを浮べてしまふ。
「実は最上先生、今日はお願ひの筋によつて参上したのですが」
と倉田博文が現れて、
「御承知ぢやないかも知れないが、ちかごろは世間にお金がなくなつたんだなア。近頃はあなた、巷に物がダブついてゐるけれど、買ふお金がないんだね。買つて売れば、もうかる。けれども買ふお金がない、その一つが紙なんだな。紙はある。どこにもある。これを買つて本にして売れば、もうかる。けれども紙を買ふお金が出版屋の金庫になくなつたといふから、深刻であるですよ。この時あなた、こゝに大資本を下してごらんなさい。先づ紙を買ふ。現品で紙を持つてる本屋なんぞは、もう日本にはないんだからな。次に漱石でも西田哲学でも何でも買ふ。買へますとも。金さへ有りや、何でもできる。さういふ時世なんだから、そしてあなた、こんな時世といふものは今まで一度だつて有つたためしがないんだから、話はそこのところなんだな。伝統も権威も看板もシニセもありやしない。みんなお金でヒックリかへる時世なんだから、それをヒックリかへさなきや、この着眼の問題なんだな。闇屋さんなんぞは、もうあなた、ありきたりのものですよ。三井、三菱、くさつても鯛、一時はヒッソクしても潜勢力、横綱のカンロク怖るべし、なんて、そんなあなた、きめてしまつちやいけないなあ。闇屋さんなんぞは新円景気、自ら時代の王者でありながら、内心は、三井三菱、今に必ず盛り返す、なんて御本人がさう考へてゐらつしやるのだから、お里が知れるといふものです。たゞ着眼の問題です。自らヒックリかへすものが、真実ヒックリかへすことができる。一流の作家と作品を買ひ占めて強引に押切つてごらんなさい。一年のうちに、日本出版界の王者はあなた、誰も疑る者がない。昔の記憶といふものは、これを亡す者の在ることによつて、忽ち必ず消滅する。不思議な時代を看破したものゝ勝利です。実はね、私の友人に西田哲学でも三木哲学でも漱石でも、一流中の一流はなんでもちやんと筋の通つた方法でとれるといふ稀な人物がをるです。こんな優秀なる人物は天下に二人とゐませんや。元伯爵、今も伯爵かな。新憲法てえのを知らねえから分らないけど、藤原氏の末席ぐらゐに連《つらな》つてゐるオクゲサマで和歌だか琴だか、みやびごとの家元かなんかに当る古風なお方であらせられるのです。兄小路キンスケと仰有る。明晩つれて参るけど、いかゞでせうか、新円を死蔵しちやアいけないなあ」
「君は古風だよ。見当違ひばつかり言つてるぢやないか。だからウダツが上らないんだよ。著作者とかけあつたり印刷屋とダンパンしたり、何ヶ月もかゝつて紙を本にしたつて、くたびれもうけさ。現品を買つて、右から左へ動かして、もうか
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