え初める、暗い廊下の片隅に、たとへば濡れた壁の中から誰か知らない金切声が頻りに僕へ叫びはじめる。
「行ッチャイケナイ、行ッチャイケナイ、行ッチャイケナイ、行ッチャイケナイ……」
僕は僅かに心を動かす、暫くは動かずにゐて、僕の黴た靴先へ潤んだ眼差を落しながら、冷えた自分の心臓へ、たとへば一から十の数へ、暫く計測の耳を澄ますが、やがて又、鈍く硬い心になつてフヤケた白色を呑み込んでしまふ。僕は項垂れて扉を開ける、扉を閉ぢる僅かな時に僕はチラリと空を偸《ぬす》む、寒々と白くぼやけた雨雲が僕の額に一杯煙る、死んでもいい、何処へ行くのだか知らないが、僕はとにかく出発しやう……僕は何んだか自棄まじりにイヤに大袈裟な決心をする、すると何んだか自棄まじりの熱い涙がこみあげさう……しかし僕は何も考へずに、だから別段泣き出しもせず、杖を振り振りただスタスタと雨の中へもぐり込む。
[#7字下げ]3[#「3」は中見出し]
僕達は、永い間、切札のやうに一つの言葉を用ひ合つた。「死にたくはないねえ……まだ、生きてゐたいよ、ねえ……」
僕は本当に死にたくはなかつた。だから僕は斯の言葉をお前に話し掛ける時、そ
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