黄昏の紫陽花色の雲のさ中を長々と横ざまに這ふ一匹の小蟹が見える、何時の頃何処の記憶か知らないが、半ば崩れた白壁に一つ裸木の物倦げな影が、秋も深く闌《た》けてゐる、いろいろの顔やいろいろの女、古い埃に煤けほうけて沸沸と浮んで消える映像の中に、やはり鮎子の面影が黴に煤けて一瞬《ひととき》空を掠めて通る。昨日の心も、今朝の心も、恐らくは又明日の心も、遠い昔の面影と共に、みんな乾涸らびた思ひ出の匂ひに泌《し》みて僕の全ての現実はたとへば磯にゐて今追憶に耽ることさへ、それも亦古い幻の風景のやう、ゆらゆらと、風に孕まれて鈍い出帆の銅羅《どら》が鳴るが、それも亦思ひ出された夢の遠さに聴き取れてしまふ、うつらうつらと一握の砂を掬《むす》んで、指を洩る一条《ひとすじ》の煙を測る、ひもすがら同じ砂砂を幾度掬んで幾度零すか、何時の間《ま》に夜が落ちたか、潮《うしお》に濡れて僕はぼんやり家へ帰る。
 夜《よる》更けて、夜毎に僕は酒場へ通つた。僕の飲む酒はいつもコニャック。様様な苦心をして、チャラチャラと衣嚢《かくし》に弄《いろ》ふ数個の銀貨を、例外なしにみんなコニャックに代へてしまふ。古ぼけた記憶の中に目覚ま
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