駈けぬけて行く。
「お待ち……」
 僕は危ふく言ひかけて、ハズミで息をゴクンと呑んだ、お前は其処にもう居ない、お前は小さく凋んでゆく、僕は暫く眺めてゐるが、やがて其処から目を逸らし、海を見て又空を見て、ながながと、欠伸をしたい気持になるのだ。しかし僕も立ち上る、疲れた体躯を一振りして、黙々と顔を伏せながら、お前の後を走りはじめる。僕は窶《やつ》れた豚のやう、皮膚の中では僕の体躯が、何か重たい荷物のやうに、無器用な音《ね》をゴトゴト立てて右と左に揺れてゐる、その震動を僕は数へ、時々海を偸み見ながら、長い岩壁をポクポクと駈けてゆく。

[#7字下げ]4[#「4」は中見出し]

 永い雨の二週間、僕の奇妙な緊張は、不思議な速力で育ち初めてゐた。霖雨《ながあめ》のうちに、六月が過ぎて、やはり煙つた七月が来た。すると僕は、もはや六月の僕でなかつた。一日のうちに一日の推移を、二つの瞬間《とき》に二つの段階を、僕は明らかに感じ分けることが出来た、もうやがて破裂が近い……それはもう僕にとつては概念でない、今明確な感覚に耳を澄ませば、弛《たゆ》みなく震幅を増す跫音《あしおと》に、僕の胎内から聴きとれてし
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