ゝさ、秀次は陰気な顔をそむけたばかりで、却つて帰洛の予定を延して旅寝の陰鬱な遊興に沈湎した。
京大坂で豪華な日夜をくりひろげてゐる秀吉は、然し凋落の跫音《あしおと》に戦いてゐた。朝鮮出兵の悔恨が、虚勢の裏側で暗い陰をひろげてゐる。その結末の収束と責任と暗い予感が虫のやうに食ひこんでゐた。たゞ成行にまかせて成算も見透しも計画すらもないこと、彼はそれを誰に咎められることもなく怖れる必要もなかつたが、何物かに、怖れずにゐられなかつた。それが先づぬきさしならぬ凋落であつた。
如何にして秀頼に関白を譲らせるか。勢運の秀吉は我慾を通す必要がなく、人々がおのづから我慾をみたしてくれたが、凋落の秀吉は我慾と争ひ、否応なく小さな自分を見つめなければならなかつた。自制の鎖は断ち切れようとし、我慾の中に明滅する小さな自分の姿に怖れた。然し、秀吉の小さな惨めな人間をさらに冷めたく凝視してゐる一人の青年がゐたのだ。秀次であつた。
秀次は関白になることなどは考へてゐなかつた。彼は秀吉の養子のうちで最も秀吉に愛されてをらず、十七の年には長久手の合戦に家来を置き去りに逃げ延びて、秀吉の怒りにふれて殺す命を助けてもらつた。小器用でこざかしくて性格的に秀吉の反撥を買ふ。彼はおど/\と育ち、彼と秀吉との接触は彼の長所がいつも反撥され憎まれることであり、性格以外に深い根柢のないものだつた。学問すらも、教養すらも、性格的に反撥され、反撥する秀吉自体の教養は秀次を納得させるものではなかつた。秀次は秀吉の小さな人間だけを相手におど/\と育ち、天下者の貫禄に疑ひを持ち、その卑小さを蔑んだ。
鶴松が死ぬ。秀吉はもはや実子の生れる筈がないと思つた。彼の愛する養子秀秋は暗愚であつた。秀吉は利巧者より愚か者が好きであり、その偏向は家来に就ても同様で、豪傑肌の愚直な武骨者が好きなのだ。さすがに天下の関白に暗愚な秀秋を据えかねて秀次に与へたのだが、成行のすべてが秀吉に満足なものではなかつたのである。
はからざる関白となり、天下の諸侯公卿は昨日と変つて別の如くに拝賀する。秀次は現実の与へる自分の姿を見出した。自分の心も見出した。その現実は秀吉の与へてくれたものだつたが、現実から育つ心に過去はない。彼は関白秀次であつた。
秀次は大名を相手に将棋をさすにも、関白と思つてわざと負けるのではあるまいな、さうでない誓言をとり
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