登山家協会とかその専門の方面が責任を持って道標を立てずに、地元の民間人にそれを任せて済ませておくというのが第一の手落ちであろう。その手落ちは咎めることができるが、道標を書いた民間人の、悲しい罪は、どうにも、憎めない。わが身の拙さ、わが身の悲しさに思い至り、身につまされて、やりきれなくなるばかりである。人はどんなに善意をつくしても、このような切ない罪からまぬがれることは不可能なのである。この罪からまぬがれる唯一の方法は、一生何もしない、ということだけだ。
 原子バクダンの発明以来、文明はその極限に来たかのような考え方が少からず行われているようであるが、原子バクダンなどというものは人を叩きつぶすだけの道具で、人を殺すぐらいカンタンなものはありやしない。人間が全然無智蒙昧な半獣人のころから、丸太ン棒一本あれば人を叩き殺すぐらい面倒はいらなかったものだ。
 しかし、人のイノチを助け、病気を治すという方面を考えると、殆ど文明などというものは、未だによそを吹く風ではないかどいう気がする。人体の機能すら、いまだに正体は判然としていやしない。ゼンソク持ちはタクサンいるが、その正体も判然とせず、特効薬も
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