てふためいたのである。
 私ははじめて自分の身体に怖るべき異常が起ったことを認めた。水中から手をだして、目の前にかざしてみると、まったく暗い紫の色である。斬り落した鬼の手を眺めているようで、人間の皮膚の色として、想像しうる色ではない。爪の色も同じ暗紫色に変っている。私はもう男でもなくなったし、常の皮膚の色まで永久に失ったのかと早呑みこみをしたほど悲しかったのである。そのうちに、腹の中から生あたたかい尿水が流れでたので、ようやく一縷の勇気、希望をとりもどした。疲労コンパイのアゲク、一時的にこうなっているのかも知れないと思うことができたからであった。
 こうして水中にジッとつかっているうちに、谷はたそがれ、ようやくいくらかの精根が戻ってきた。とても上の径まで登る力はないと生還をあきらめていたのであったが、精根が戻ってくると浮世の才覚も戻ってきて、ナニ、上の径まで登らなくッとも、谷川ほど確実な径はない。山の径はたまたま自然消滅して人里へ通じてくれない場合があるが、谷川というものは、必ず人里へ通じるものである。これぐらい確かな道はない。おまけに谷川を渉りつつ、目を皿にして対岸を吟味して行けば、
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