して、一挙に数百キロも離れた海へそそぐような大変化を起す。洪水のあとは水が数年ひかなかったりするが、洪水地帯へ流れこんで一米から三米の厚さに堆積した黄土は新たに豊饒な沃野をつくり、豊かな作物を実らせてくれもするのである。もっとも、洪水がなければカンバツという天災があって、照るにつけ、降るにつけ、黄土地帯の農民は楽ではない。
 シナの歴史は黄河の歴史でもあり、黄河はシナ文化の温床でもあった。黄河治水に没頭十三年、わが家へ帰るのも忘れたという禹《う》が治水の功によって王に挙げられて以来、孔子はここで王道を説き、三蔵法師は黄河をさかのぼって天竺《てんじく》へと志し、諸侯が争った中原《ちゅうげん》はこの黄土地帯であった。さらに遠く上は北京人類にさかのぼり、下はパールバックの大地に至る、人類の発生からヨーロッパ文明との交流期に至るまでシナ文化史の中枢を徹頭徹尾貫くことに相成った。
 日本王朝ならびに日本文化発祥の地、大和に於ても、古代日本を象徴する一本の川が流れていた。曰く、飛鳥川である。
 万葉の詩人は、有為転変の人の世を飛鳥川になぞらえて、昨日の淵は今日は瀬となる、と詠歎し、彼らの生活に於て変化の甚しきものは川の流れであることを素朴に表現しているのである。ジュウタン・バクゲキも鉄砲すらもなかった古代に於て、川の流れが、彼らの生命である土地に最も大きな変化を与える怪物であったことは、ジュウタン・バクゲキを数度にわたって経験した小生に於てすらも、文句なしにこれを認めることができる。早川口に於て、利根川に於て胆を冷やし、下っては書物で黄河を読んで舌を巻いたからである。
 しかしながら、飛鳥川というものは、川の幅が三間ぐらいしかないのである。山から流れてくるけれども、耳成山だの天ノ香具山だのウネビ山だのという箱庭程度の小づくりの山からチョロ/\と流れてきて、古《いにしえ》の帝都の盆地を走っているにすぎない。
 私が小田原で胆を冷やした早川は、谷底を九十九にまがった分を勘定しても、全長五里か七里ぐらいのものだろう。けれども、これは、千米の蘆ノ湖からたった五里か七里ぐらいで海へ突ッこんでしまうのだから、大雨至るや、ジュウタン・バクゲキをくらった男が改めてドギモをぬかれるほどの大きなことをやらかすのである。
 飛鳥川は玉川上水と同じぐらいの小川にすぎない。
 大黄河にもみまくられて育っ
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