たシナの歴史や文化にくらべれば、飛鳥川に有為転変の感懐を託していた日本文化の源流というものは、温室育ちも極端であり、あまりにも小さすぎて、いじらしく、悲しく、おかしく、異様ですらある。

          ★

 金閣寺に放火した犯人が「美に対する嫉妬」と言ったり、「見物にくる人間への反感」と言ったという新聞記事の報道は、犯人がそのとき、そう言ったという事実を伝えているかも知れないが、犯人の本当の心がそれにつくされていると考えるのは速断にすぎるであろう。犯人というものが本当の心を言わないという事ではなく、人間というものが、真実を語ろうと努力している時ですらも、表現が思うようにできなくて、頭の中にあることと相当ヒラキがあるような、自分にとっても甚だ空疎でヘタな説明しかできなかったりしがちなものである。犯人が罪を犯したか否か、というような返答の場合ではない。特に、観念的な事柄の表現に於てである。そして、私のように、それを表現することが商売の人間ですらも、自分の観念を思うように表現するには時間も技術も必要であり、うッかりすれば、人の言葉の借り物となり、自身考えつつあることとは相当ヒラキのある妙なものとなってしまいがちである。
 つまり、美に対する嫉妬、ある階級への反感、というようなことは、その一つを執りあげて言葉の真実を主張するには、微妙にすぎるものである。思考の老練家が、自分の観念を分析した場合でも、このような結論を真実なものと断定して提出することは、一朝一夕の推考ではできがたい。
 まして捕らわれた犯人というものは、真実よりも、虚偽を、虚偽よりも、むしろ虚勢を語り易いものである。彼らが最も真実であると肩をそびやかして語ることを、彼がこう語った、という事実[#「事実」に傍点]として新聞が報道するのは当然であるが、文士や学者や社会批評家という啓蒙をもって天職とせられるお歴々に至るまでが、これを真実[#「真実」に傍点]として批評の対象とせられるのは、どうかと思う。
 こういう時には、まず、疑ってかかるものだ。それは、人を疑るからではなくて、こういう場合に想定せられる自分自身を疑らざるを得ないからだ。
 美に対する嫉妬、見物人に対する反感、そういうことを、この犯人が考えたことがなかったというわけではない。そういうことも考えたことがあったであろう。しかしながら、真に彼が火を放
前へ 次へ
全11ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング