った原動力というものは、果してかかる観念的な結論から到達した決断であったか、どうかは疑わしい。
 私は思うに、人々は(立派な文士、学者、社会批評家、美術家をひッくるめて)焼かれた金閣寺という建築物に重点が置かれすぎて、判断に公平を失したのだろうと思う。金閣寺でなくて、もっと名もない建物に放火したのであったら、彼がもっと深遠な放火動機を述べたてても、まるで犯人の言った言葉が「生き物」として扱われるような、変な取扱いをうけることにはならなかったであろう。
 私はこんな青年はザラにいると考えているのである。彼はたぶん変質者で、同居人や、主人筋の人々に愛されず、ひそかな反抗を内攻させて、あげくの放火であったろうと思うが、たまたま彼が金閣寺に住んでいたから、金閣寺に放火するに至ったまでのことである。彼が田中という旧家の使用人であった場合には、田中家に放火したであろう。
 たまたま、このような青年が金閣寺に住んでいたために金閣寺が焼かれただけのことで、金閣寺というものの特性が彼に放火せしめたのではないのである。
 自分を裏切った女の顔に硫酸をブッかける犯人は、裏切ったどの女にも硫酸をブッかける必然性が彼の方にあって、彼女の方にどの男からも硫酸をブッかけられる必然性をもっていたわけではない。
 金閣寺の青年は、寺内の人々への反感に次第に放火を決意するに至ったが、一番溜飲の下るのは、彼らすべてがそれを飯の種にし、彼らの生存の誇りともしている金閣寺そのものに放火することで、反感とか復讐というものが、最も主要なものを対象に選ぶのは、当然なことである。
 彼が女の顔に硫酸をブッかけたり、田中家の土蔵に放火したり、野球選手の腕をカミソリで斬ったりする場合であったならば、その場合に応じて、復讐の一念のほかに、その罪を犯すことの社会的な責任とも一応は闘い、結論として、その弁明を得ていたに相違ない。たとえば、このような浮気女をのさばらせると、さらに多くの男が泣くであろう、とか、田中家の財産は代々の罪の集積であり、農民の膏血《こうけつ》をしぼって得られたものであり、それへの反感であった、とか、彼の右腕は世間を欺瞞しているから、というような。
 金閣寺の彼は、対象が国宝の金閣寺であったがために、その特性に応じた責任感と一応は闘い、それに対して、特殊な弁明をも得ていたにすぎないと思うが、彼が罪の意識と
前へ 次へ
全11ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング