闘ううちに、美への嫉妬とか、見物人への反感というようなことを真実なものとして実感していたことも間違ってはいなかろう。硫酸をブッかけた男が、かかる浮気女に社会的に制裁を加える、というような、自分を離れた正義心を実感していたとしても、その真実を疑うことができないのと同様である。
 又、私は、金閣寺が焼失したことについても、新聞に雑誌に、多くの識者が、国家の一大損失であるかのように説き立てることに対しても、まったく賛成していない。
 私はこれに対しては、方丈記の思想や、黄河の二千年前の名論の方に賛成であって、生あるものは滅する、木で造ったものが火に焼けるのは当然だ。火や地震と争うのは愚なことで、今後の人間は鉄とコンクリートで造った家へ移りすんで、木で造ったものは、燃えたり崩れたりするにまかせて一向に差支えない、という考えなのである。私はしかし二千年前の黄河学者ほどヤブレカブレではないのである。
 只見川上流の山岳地帯をダムにすることとなって尾瀬沼一帯の湿原帯が水底に沈むこととなり、日本に、又、世界に、ここだけしかないという植物の繁殖している貴重な文化宝庫を失うことになるについては、政府のやることは文化を無視して目先の企業に走り怪《け》しからん、という説がある。新聞などの記事によっても、植物博士の肩をもつ調子のものが多いようだ。
 しかし、尾瀬沼地帯を水底に沈めてダムにするという計画は終戦後に始まったものではなくて、戦争前の計画であり、そのころから、珍植物の宝庫を失う可否については、ジャーナリズムの片隅で問題になっていたことであった。
 尾瀬の珍種というものが発見されて何十年もたっているのに、それに対する徹底的な研究を怠っていた植物博士の怠慢の方が、政府の企業よりも、非文化的だと私は考えているのである。たかが十種類ぐらいの植物じゃないか。その生態をトコトンまで究めるに、何十年が短い時間だとは思われない。尾瀬の開発が、世論にのぼってからでも十余年の年月を経ているのに、その責任に対しても特に研究するということがなく、たった十種ぐらいの植物の存在をタテにとって、広大な高原を自分の不急の研究室として原始のままで保存させうるものときめている植物博士の頭の悪さの方が度しがたい。研究室なり、他の山地なりへ移植を試みる努力をしたという話もきいたことがない。よしんば原物の保存ができなくとも、
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