に、病気をいなし、自家流の療法を自然に実行しているものである。時々の旅行のようなこと、スポーツ、魚釣り、各人各様に息ぬきを見つけ、気附かぬ病気を巧妙にいなしているものである。
 私の場合で云うと、私は居を移すクセがあった。どうしても、そうせずにいられなくなり、いたたまらなくなって、突如として居を移している。学生時代は単に引越しで、距離的にも百米、千米足らずのものであったが、だんだん距離がのびて、家出となり、放浪となった。三十歳以後は東京から京都――東京――取手(茨城県)――小田原――東京。だいたい、一年三四ヶ月の長いものから、十一ヶ月の短いものまで、一年前後の周期で移動していた。
 私のような身軽な者は、そんな勝手なことができるけれども、定業のある人にはできない。だいたい精神病というものは、いつでもその土地を立ち去ることができたり、その人から離れることができたりするような、四囲と自分とのツナガリに、根柢に於て無関心なものが土台になっている限り、発病しないように思う。なぜなら、そこを立ち去れば、すむことなのだから。
 無関心――この反対を私流に「甘える」ということにする。たとえば、土地や
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