ゐたのだらうか。私は息がとまつた。私は彼が何かいつてくれなければ大変なことになると閃くやうに思つたのだ。然し、彼の目は、あまりにも美しすぎた。
「あなたが私を殺さなければ、私が殺すわよ。それでいゝの。あなたが先に死んでも」
 彼は返事をしないのだ。深い目で、なんだか、そ知らぬやうに、私を見つめてゐるのだ。私は悲鳴をあげさうだつた。何か、いつて。一言。言つてくれなければ、もう、ダメぢやないか。
「殺すわよ。いゝの! 殺して」
 彼の深い目が、私を、ゆつたり見つめてゐた。私の方が先に叫んだ。ギャッといふ叫びが私ののどから走つた。そして私はカミソリを彼のクビに押しあてゝ力いつぱいひいてゐた。
 彼はグラグラして私の方へ倒れた。
「よし、ひいてくれ。力いつぱい」
 彼はたしかにさういつた。然し、それが、どの瞬間に叫ばれた声であつたか私はもう思ひだせない。彼のクビから一時に血がふきだした。その血は私の胸にもとびかゝつたが、まるで大きな噴水の柱にたゝかれたやうに強くて重い力がこもり、私はそれが彼の愛情のすべてのあかしであるやうな、なつかしさに激動した。
 私は彼を仰向けにした。彼はまだ苦悶してゐた
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