の先を云ふ。してみれば、未来は必ず存在しなけれはならぬ様に思はれる。が、しかし再三云ふ如く是も亦、「時間を仮定ししかる後意識を規定せんとする誤解」に本づく。前述の如く「唯一の力」は何者にも規定されない。あくまでも全てを規定すべきものが「唯一の力」である。しかし、此の未来を「力なき対象」として過去(即ち対象)に属せしめる以上は未来を時間としての意味でなく、意識の対象としての意味に於て見てゐるといふことに就て再考する必要がある。いはゆる「予想せられたる未来」として前来これを一つの意識対象に取り扱つて来たことは、結局「予想せられたる未来」が単に未来に就ての意識であるに止つて、たとへ我々が明日のこと十年百年以後のことを予想し得るにしたところで「現在意識しつゝある力」にとつてはあくまで只「意識せられたもの」であるにすぎないといふのである。
しからば前来説明してきた現在と過去との関係は、「力」なるが故に現在であり、力によつて「はたらかれる」ものである故に過去であるといふことであり、従て、過去と現在とは「主」と「客」との相違に本づく区分であるといふことに気付くであらう。要するに未来を除去したことは、現在と過去との関係が全然一般の時間的区別と異つてゐることに注意すれば、やゝ明となる。
しかし此処に問題となることは、此の如き質的相違(主と客といふ)に対して「時間的」な過去現在といふ文字を当てはめてよいかどうかといふことであらう。しかし本論三節に於て説明した如く、力は全てに先立つ意味に於て過去といひ現在といつて誤のないことは確信する。結局、かゝる空間的事物を時間的に規定することは誤解をまねき易いといふだけのことゝ思ふ。例へば「未来は過去である」といふことは首肯し難い。しかし前来述べてきたところは「意識の対象を過去といふ。未来は意識の対象である。故に未来は過去である」といふことに外ならぬ。あくまで我々は「意識内容」としての「未来についての観念」以外に未来を予想することは許されない。この一見、矛盾に似た論述、即ち未来は過去なりとし、かつ現在と過去のみが存在すべしといふことは、さらに之を明にする為に、過去といふ名義を取り除けば、判然すると思ふ。何とならば「ハタラカレタルモノ」即ち「意識の対象」を強ひて「過去」と名《なづ》ける必要はさらにない。一応「意識の力」の唯一なはたらき[#「はたらき
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