持つてゐたといふのである。私の現実に彼自身の夢の実現を見て悲しく酔つてゐるといふことを。
そして彼は私に話すべく用意してゐた言葉だけを言ひ終ると、変にアッサリと立ち去つた。そしてもう私の身辺へ立寄らうとしなかつた。
実際バカげた青年だつた。
私にはお嬢さんの恋人どころか、友達だつてありはしない。彼はいつたい何を夢見てゐたのだらう? 私の身辺の何事から、こんな思ひもよらぬ判断がでてくるのだか、思ひ当ることは一つもなかつた。
けれども私は長島と白水社でフランスの本を買つて出たたそがれ、やつぱり見知らぬ青年によびとめられた。この青年は三十をすぎてゐるやうだつた。彼は私とちかづきになることを長らく望んでゐたのだといふ。
「十五分だけ」
彼は十五分に力をいれて言つた。十五分だけ自分と語る時間を許せと言ふのだ。私たちは喫茶店へはいつた。
彼の語つたことは、然し、彼自身の心境だけで、傍観者以外であり得ない無気力、マルキストにもなれなければエピキュリアンにもなり得ない、安サラリイマンの汲々たる生活苦が骨の髄まで沁みついた切なさに就てゞあつた。
彼は小男であつた。そして安サラリイマンの悲劇
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