る文学がその言葉によつてナポレオンを笑ひうるのか、ナポレオンが文学を笑ひうるのか、私には分らなかつた。
 青春の動揺は、理論よりも、むしろ、実際の勇気に就てゞはないかと私は思ふ。私には勇気がなかつた。自信がなかつた。前途に暗闇のみが、見えてゐた。
 そのころアテネ・フランセの校友会で江ノ島だかへ旅行したことがある。そのとき、私の見知らない若いサラリイマンに、妙になれなれしく話しかけられたものであつた。彼は私だけ追ひまはして、私にいつも話しかけ、私の影のやうにつきまとつて私を苦しめたものであるが、あたりに人のゐないとき、彼はとつぜん言つた。
「あなたには何人の、何十人のお嬢さんの恋人があるのですか」
 私は呆気にとられた。彼は真剣であつたが、落着いてゐた。
「あなたは、あなたを讃美するお嬢さん方にとりまかれてゐる。私はいつも遠くから見てゐたのです。私は寂しくも羨しくもありますが、私の夢をあなたの現実に見てゐることの爽やかさにも酔ひました。あなたは王者ですよ。美貌と才気と力にめぐまれて」
 彼の言葉はかなり長いものだつた。彼は私の友達になりたいのではなく、たゞ、私に一言話しかける機会だけを
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