してゐたといふ。彼は貴公子の風貌だつた。喫茶店の女に惚れ、顔一面ホータイをまき、腕にもホータイをまいて胸に吊り、片足にもホータイをまいてビッコをひき、杖にすがつて連日女を口説きにでかけたといふ。
「助平は私たちの血よ」
 お通夜の席で、彼の妹が呟いた。自嘲の寒々とした笑ひであつたが、兄の自嘲と同じものだ。私はそのとき、あの日の彼の自嘲の顔を思ひだしてゐたのだ。愚行を敢てする者は彼自身であつたのである。彼は人を笑へぬ男であつた。自分のことしか考へることができないタチの孤独者だつた。

          ★

 戦争中のことであつたが、私は平野謙にかう訊かれたことがあつた。私の青年期に左翼運動から思想の動揺を受けなかつたか、といふのだ。私はこのとき、いともアッサリと、受けませんでした、と答へたものだ。
 受けなかつたと言ひ切れば、たしかにそんなものでもある。もとより青年たる者が時代の流行に無関心でゐられる筈のものではない。その関心はすべてこれ動揺の種類であるが、この動揺の一つに就て語るには時代のすべての関心に関聯して語らなければならない性質のもので、一つだけ切り離すと、いびつなものになり
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